Cat and shot gun.
「猫と散弾銃」
これは僕の親友の話である。 僕と彼が知り合ったのは、今は昔、小学生の時だ。実家が同じ町内にあったのである。三年生のときに同じクラスになり、僕たちはすぐに親しくなった。 しかし親たちに揶揄されるほどに、僕と彼は対照的な人間だった。 僕は非社交的で外で遊ぶことよりも家にいることを好む、典型的な引きこもり少年だった。成績もどちらかと言えば悪く、足も遅い。逆上がりは結局出来なかった。友達も少なかったし、クラスにいても喋っている時間より黙っている時間のほうが長かった。 いや正直に告白する。その頃の僕は元気に騒いでいる級友たちを「子供だ、馬鹿だ」と見下していた。周りみんなを馬鹿だと思っている、典型的な頭でっかちの捻くれた少年だったのだ。 対する彼は素直な優等生少年だった。運動も勉強もよく出来て、社交性にも富み、公平で誠実で、その上物事に対する積極性を持ち合わせている。クラスの中心になる典型的なタイプだ。容姿も悪くない。派手な顔立ちではないが、さっぱりとした清潔な雰囲気があって、いかにも女性に好かれそうだ。家柄も悪くなく、現在は某有名大学の法学部で弁護士を目指している。 それだけなら周囲に「厭味な男だ」と思われてしまいそうだが、彼にはすこし抜けているというか、天然気味なところがあって、それが彼に親しみを与えていた。その所為か、彼がよく出来るからといってやっかむような人間はほとんどいなかった。彼をやっかむような人間は、そいつの方によっぽど問題があるのである。 彼がそのような人格者だったからこそ、僕のような捻くれた人間とも打ち解けることが出来たのだと思う。昔の僕は周りすべての人間を馬鹿だと思っていて、彼のことも例外なく馬鹿だと思っていたが、心の底では『自分よりも彼の方こそ優れた人間だ』と認めていたのだ。認めざるを得なかった。だって彼は超イイ奴だったのだ。 しかしそんな彼にもひとつ欠けているところがあった。 彼は女の子を本気で好きになることがなかったのである。彼は女の子にとてもよくもてたけれど、彼は誰にも本気になることがなかった。 それでも彼の人格はとても公正で誠実だったから、こじれることはなかったが、勘の良い女の子たちは彼が自分に本当の熱を注いでくれていないことを見抜き、時折、彼を攻め立てた。 彼は酒の席でそのことをよく僕に相談した。 「みんな同じに見えるんだ。そんなことを思うのは酷いと思うんだが、どうしてもそうなんだ。好きだと言われるのは嬉しいんだけれど」 「贅沢な悩みだね」 僕はそれに毎回、同じ苦言を呈した。 「僕も出来ることなら、みんな同じに見えるくらい女性に愛を告白されてみたいものだ」 そう言うと決まって彼は、眩しいものでも見るような目で僕を見るのだった。 彼は女の子に本気になれないことを自分の重大な欠陥だと思っていて、そのことに心を痛めていた。純真な奴だったのだ。 だから僕は話の最後に毎回必ずこう言った。 「僕らはまだ若いじゃないか。ただ出会ってないだけだよ。いつか現れる」 それでも、いつも彼は納得しなかった。彼は『それは自分の決定的な欠陥で、直ることは絶対に無い』と思い込んでいたのだった。 しかしやがて正しかったのは僕だったと証明される。 彼が恋をしたのは、彼と僕が二十一歳になった頃だった。 「聞いてくれ。本当に好きな子が出来た」 彼はその時有名大学の法学部の三年生で、僕もあまり有名でない大学の文学部の三年生だった。 彼がそれを僕に報告したのは、大学生になってから通うようになった居酒屋のカウンターにいつものように座り、二人でビールを飲んでいるときだった。 「そいつはすごい」 僕は心から驚き、そして祝福の気持ちを持った。 「お前を惚れさせるなんてどんな子だ。練習中に散弾銃で心臓でも打ち抜かれたのか?」 彼がクレー射撃のサークルに入っていたことを思い出して、僕は軽口を叩いた。 「散弾銃で打たれたら死ぬよ」 彼は笑った。 「散弾銃で撃たれた様なものかもしれないけれどな」 散弾で肋骨ごとハートを奪われた、と彼は柄にも無く少し気障なことを言った。僕は腕を掻いた。彼はまた少し笑った。 「彼女はサークルの子じゃないんだ。まあサークルで出会ったんだけど」 そして彼ははにかみながらその名前を口にした。 水野蓉子。 その時に初めて僕は、その名前を聞いた。 「二週間前ほど前のことなんだけれどさ」と彼は話を始めた。 二週間ほど前。 彼と彼のサークルメンバーは、都心から離れた場所にある射撃場に定期練習に来ていた。いつも通り変わらない、定期的な活動だ。 しかし1ラウンドをこなしたところで、その日の彼は練習場の端に見慣れない女の子の背中があることに気がついた。その女の子は散弾銃を手に、部員の女の子と話をしていた。 黒い髪の、姿勢のいい女の子だった。 誰だろうと思いながら何となくその背中を見ていると、彼女はこちらに向かって歩いてきた。そして彼女は偶々空いていた彼の隣についた。 彼は彼女に話しかけてみた。 「新入部員?」 そこでやっと彼女は、彼の顔をはっきりまっすぐ見た。 彼は息を飲んだ。 それは(いささか誇張があるかもしれないが、彼の証言によると)見たこともないほど綺麗な女の子だった。 彼女は短めに切りそろえた黒い髪を揺らして、彼に微笑を向けた。 「こう言ったら悪いけれど、そこらへんの女子大生とは全然わけが違うんだよ。女子大生って大体みんな、茶色に頭を染めてるだろ? けれど、彼女はまったくの地毛の黒いままでさ……なのに、誰よりも洗練されているっていうか。雰囲気が他と違うんだ」 本当にあんな綺麗な女の子は初めて見た、と彼は首まで紅潮させながら言った。 彼が彼女に見とれていると、彼女は全くそれに気づいた様子もなく、散弾を銃に詰めながら、自分がここにいる理由を説明し始めた。 「いえ、今日だけの部員です。散弾銃に興味があって教習受けたんですが、射撃場の勝手とかよく知らなくて」 彼女はイヤープロテクターをはめた。そして大きめの声で彼に言った。 「それで、ここの部員の友人に頼んで今日だけ混ぜてもらったんです」 そう言って、水野さんは笑った。彼はやっと言葉を取り戻した。 「散弾銃に興味があるんだ?」 「ええ、日本で合法的に比較的に容易に手に入る銃のひとつですから」 水野さんはそう言って、手にした散弾銃を軽く構えた。その構えは、初心者とは思えないほど堂に入ったものだった。 「犯罪に使われることが多い銃です。だから……実際にどんなものなのか、肌で感じてみたくて」 そして、彼女は見事に散弾銃を撃った。それは初心者とは思えない成績だった。 水野さんは1ラウンドを終えると、彼女はイヤープロテクターを外した。 「凄い威力。使われるはずだわ」 難しい顔をして、彼女はそう零した。 そして、その凛とした瞳は、クレーだけでなく、彼のハートも撃ち抜いた。 「彼女みたいな人を、いい女って言うんだ」 ハートを撃ち抜かれた男はそう言って、切ない溜息を吐いた。 彼の恋が進展を見せるのは、それから数ヶ月後のことだ。 同じ学部の同学年だったということもあり、彼と水野さんは段階を経て、親しい友人になることができた。彼は元々社交的で感じのいい人間だったから、そこまでは大した労力はかからなかったようだ。 彼と水野さんが同じゼミに入ってしばらくして、僕は水野さんの顔を見る機会に恵まれた。それは彼がゼミの合宿で何人かと一緒に撮った写真で、その中に水野さんの姿もあったのだ。 初めて見た水野蓉子さんの姿に、僕は感嘆の溜息を隠せなかった。成る程、水野さんは桁外れの美人であった。モデルだとしてもおかしくない美貌なのだが、テレビで見るアイドルや女優とは一線を画した雰囲気を持っている。それが不思議だった。そして僕は、それは水野さんが自分の美貌を武器にしようとしていないからだ、ということにすぐに思い当たった。魅力はたっぷりだが、無差別なフェロモンが無い。僕個人の意見としてはもう少し気の張っていない無差別フェロモン溢れる女の子が好みだけれど、その圧倒的な美貌をひけらかす空気の無い水野さんには好感を持った。 写真の中で彼女は芯の強そうで、どことなく無邪気な笑顔を向けていた。 しかしそこから先、友人から先には彼はなかなか踏み切れなかったようだ。 お決まりの居酒屋でビールを交わしながら、「女々しいな俺は」と自嘲する彼に、恋って言うのはそういうものだ、と偉そうに言ったりした。僕もちょうどその頃、お気に入りの女の子の外堀を埋めるような真似しか出来ていなかったので、自分の正当化も含んでいた。 だけれど彼は僕とは違った。彼は本質的には女々しい男ではなかった。時期を見計らって、彼はきちんと水野さんに告白をした。 水野さんは凄く驚いたそうだ。全く予想をしていなかったらしい。 「結構あからさまに態度に示していたつもりだったんだけれどなあ」 言いながら、彼は少し遠い目をした。 水野さんほどの女になれば、彼氏の一人や二人いてもよさそうだったが、事前の調査で誰もいないことは解っていた。 ならば他に言い寄る男がいてもおかしくないのだが、水野さんは美人過ぎた。成績が良過ぎた。優秀すぎた。性格が出来すぎていた。意志も強すぎた。そういう女は、自分に自信のある人間でないと口説けない。 彼女は『高嶺の花』過ぎて、幸か不幸か大学の四年生になるまで誰にも手を伸ばされなかったのである。 「高校までは?」 「彼女、女子高だったんだってさ。しかもリリアン」 「げー、あのお嬢様学校かよ」 リリアンは西東京にある有名な超お嬢様学校だ。正式名称はリリアン女学園。純粋培養のお嬢様たちが通うという、かの有名なシャングリラ。 「だけれど、水野さんはちっともとっつきにくくないんだ」 「へえ。で、それよりも告白は上手くいったのか?」 彼の(水野さんにとっては)突然の告白に、水野さんは凄く動揺し、悩んだ様子だったが、彼の時間をかけた熱心な説得により、最終的には交際を承諾してくれたそうだ。 「なんだ、よかったじゃないか」 「うん……そうなんだけれどさ」 彼はどうにも素直に喜べないような顔をしていた。 僕は怪訝に思った。念願の水野さんとの交際がスタートしたと言うのに、彼はどうにも煮え切らない。彼はビールを傾けた。 「結局俺が押し切ったような形だったし……これでいいのかって思っちゃって」 「でも承諾してくれたんだろう?」 「うん、それはそうなんだけれどさ。水野さんのあの考えっぷりが、引っかかるんだ。だって彼女はどんな時も涼しい顔してて、ゼミの中で殴り合いの喧嘩が起こっても動じないような人なんだよ。なのにすごく動揺していた。俺の告白くらいで。あんな顔は初めて見たんだ」 僕は彼に、考えすぎだよ、と言った。 リリアン出身だし、ただ恋愛には初心なだけだろう、素敵じゃないか、と言ってやった。 「そうかなあ。そうならいいんだけれどな」 しかし残念なことに今度は彼が正しかった。 一週間もしないうちに、彼は振られてしまったのだった。 「やっぱりごめんなさい、付き合えないって言われた」 彼は苦笑いを浮かべて、報告をした。僕は酷く驚いた。 僕には彼ほどの男を振る理由がわからなかった。男にもてる男は女にもてないとはよく言うが、彼はそうではない。数々の女の子から求愛をされる男なのだ。 僕が不満を漏らすと、彼は少し寂しげな顔をして笑った。 「いや、でも何となくわかっていたんだ。彼女にはきっと好きな人がいるって」 その通りだったんだよ、と彼は言った。 「俺の方が卑怯だったんだ。好きな人がいるって気づいていたくせに、そのことには触れないで強引に付き合ってくれって言ったんだから。俺は本当は知っていたんだ。彼女は多分きっと叶わない恋をしているんだろうって。だけど叶わないなら、俺で手を打ったらいい、って思ってさ」 でも、駄目だよな、と彼は言った。 「そんな軽い真似、彼女に出来るわけがないんだ。だって俺が好きになった女なんだから」 この男の純粋さに、僕は軽く眩暈がした。そして、それから水野さんに対しての怒りがこみ上げてきた。彼に水野さんを責めることはできない。だからきっと責めるのは彼の友人の役目だと思った。 「だったら最初からOKするべきじゃなかったはずだ。ぬか喜びさせてさ」 「うん……そうなんだけれどさ」 彼はなんだか複雑な顔をした。どうやら他にも何か理由があるようだ。 僕が追及すると、彼は「お前にだから話すんだけれど」と言って、水野さんが彼を袖にした理由を教えてくれた。 それを聞いて、僕はひっくり帰りそうになった。 水野さんの好きな相手はなんと女性だったのだそうだ。 僕が口を開けてあんぐりしていると、彼は続けた。 「好きな相手は自分の親友で、九年間ずっと好きだったんだってさ。でも自分に興味が無いようだったから、何も言えなかったって」 水野さんは彼に何度も謝罪したそうだ。彼が恐縮するくらい何度も何度も謝った。 水野さんは最後に彼にこう言った。 「貴方を尊敬する」 夕暮れのキャンパスで、彼女の顔が斜陽に照らされていて、凄く綺麗だった、と彼は言った。 「貴方は真正面から私に向き合って、自分の気持ちを伝え続けてくれたわ。私にはそんな発想も、勇気も、根性も無かった。少しでも拒絶されたらすぐにもう駄目だと自分で決め付けて。でもそうじゃないのよね。相手のことを伺ってばかりじゃ駄目なのよね。自分がどうするかなのよね。それを、貴方は、教えて、くれた」 そして彼は初めて水野さんの涙を見た。 「ありがとう。それから、ごめんなさい」 勿論、彼はそれ以上何も言えなかった。けれどその涙を何より美しいと思った、そうだ。 僕の親友と水野さんとのラブストーリーはここで終了する。彼と彼女の思い出は、男女交際の別離のあるべき姿として、正しく傷になり、そしてその痛みを思い出す度に、前向きな感傷を二人に与えることになるだろう。 でも実は――彼には言っていないが、僕にとってのこの二人の話には、後日談があるのだ。
彼と彼女の別離から三ヶ月ほど経った、冬の日のことだった。 空気は張り詰めたように冷え、東京特有の冬の青空の光が街を照らしていた。 僕は都心の大きな複合施設の近くにある吹き抜けの広場で、巨大なイルミネーションを見上げていた。 気分は最悪だった。何故なら僕は先週、自分の気になっていた女の子が、例によって自分が外堀を埋めている隙に、あっという間に他の男に奪われてしまった所だったからだ。要するに失恋したのである。ついでにその日は面接に落ちた。出来のいい学友たちは「まだ就活終わっていないのか」と言い、フリーターコースの友人たちは「まだ就活していたのか」と言った。 僕は面接から帰ったリクルートスーツのまま、何とも言えない苦味を噛締めながら、そのイルミネーションを見上げていた。真昼間から点灯しやがって、一体その金はどっから出てるんだ、などと心中で悪態をつきながら。 僕が力なくベンチに座ると、なんとも言えないブチ模様の猫が歩いて、僕の前を横切って行った。黒でなくて良かったと思って、その猫を視線で追っていると、その猫はある人間の前で止まった。 それは女の子だった。髪が短いので一瞬どっちだか解らなかったけれど、その長い睫毛や細い身体のラインは、間違いなく女の子のものだった。そして、僕はその子の顔を見てハッとした。彼女は色素の薄い瞳と髪をしていて、彫刻のように彫りが深く整った顔をしていた。なんだか冗談みたいに美形だった。上等そうな皴一つ無いコートを着て、ポケットに手を突っ込んでいる。 ハーフかな?と僕が考えていると、その女の子は猫を抱き上げた。 「なんだ、お前、懐っこいな」 彼女はそう言いながら笑って、猫を触った。日本語は流暢だった。そして彼女は僕の方を見た。 「黒猫じゃなくてよかったって思ってる?」 僕は驚いて、気の利いたことを言おうとしたけれど言えず、「そうですね」なんて微妙な返事しか返せなかった。彼女は僕の近くのベンチに座った。 「就活?」 「まあそんなところです」 彼女は不思議な雰囲気の持ち主で、いきなり話しかけられたけれど、厭な気持ちは全くしなかった。美女補正かかってるかもしれないけれど、少なくとも僕は親しみやすいと思った。 「私もさぁ、全然なんだよね」 彼女は大げさに嘆くようにため息を吐いた。そのファンキーな仕草に僕は思わず笑った。 「四年生?」 「うん、君は?」 「俺も四年」 「じゃあ同じだ」 二人で顔を見合わせてまた笑った。 「卒業はできるんだよね。全然余裕で」 「俺もだよ。でも就活ってなると、うまくいかないんだ」 「うんうん、甘いのかもしれないけれど、自分が何したいのかとかもよくわからないのに、そんな中で就活とか、変だなって思っちゃうんだよね」 「わかるよ。だから面接では微妙なことしか言えなかったりね」 「そうそ。なんか今のバイトも居心地いいしね」 「俺も俺も。どこでバイトしてるの?」 「大学の近くのバー。君は?」 「俺は居酒屋」 「おー水商売同士ですな~」 彼女は笑って歯を見せた。彫刻のように恐ろしく整った顔立ちだけれど、笑うと結構無邪気で可愛かった。 何だかいい感じじゃないか? 僕は少し調子に乗ってきた。こんな美人とお近づきになれたら、失恋も就職活動もチャラに出来るんじゃないか? そんな僕の考えを知ってか知らずか、彼女はひざに乗せた猫をなでながら呟いた。 「まあ、そんなだから、よっこに叱られるんだけれど」 「友達?」 「いや、恋人」 ドキッとして、ガックリきた。ヨッコって、きっと、ヨウコの略だと思ったから。ガックリは、なんだ彼氏いるのか、っていうガックリだ。ヨッコと略される彼氏って、どんな名前か気になったので聞いてみた。 「彼氏、どんな名前なの?」 「彼氏はいないよ。名前はミズノヨウコ」 そこでやっと気づいた。ああ、そうか、彼女の恋人は女の人なのだ。今時珍しくも無いけれど、実際言われるのは初めてだ、なんて思いながらドギマギしながら考えた。 しかしミズノ…? どこかで聞いたような…。 「セイ」 凛とした声が降ってきた。二人して見上げると、そこにはいつかの写真で見た、黒髪の美女が立っていた。 すると隣の彼女はにっと笑って、懐中時計を取り出して開いた。その文字盤には真一文字のヒビが入っていた。 「今日は遅れなかったよ」 「当たり前じゃない。貴女から呼び出したんだから。貴女、こんなことしてる場合じゃないでしょう? こんなことしている暇があったらエントリーシートのひとつでも…」 「はいはい、今日は言いっこなし。ここのアートギャラリーでさ、ヨウコの好きそうなのがやってて、今日が最終日だってこと昨日知ってね、行こう」 セイ、と呼ばれた彼女は立ち上がった。 そして振り返り、今までの僕の人生で一度も見たことが無いような、チャーミングな笑顔を見せて、彼女は言った。 「じゃあね」 彼女は猫のしっぽのように手をゆらゆらと振って、『ミズノさん』を連れて立ち去った。 僕は呆然と彼女の背中を見送りながら、思わず呟いた。 「……あれじゃ、仕方ないか」 残された僕の目の前で、彼女のひざから解放された猫が、伸びをすると、ひとつ鳴いた。
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