「ごきげんよう」 「ごきげんよう」 さわやかな朝の挨拶が、澄み切った青空にこだまする。 それに折り重なるように響くのは、鍵盤の旋律。そして、弦や管の様々な楽器たちが歌う音。 汚れを知らない少女たちが今日もその五線譜の上を、音符をひとつひとつ踏み鳴らしているかのように、靴の踵を鳴らし、背の高い門をくぐり抜けていく。 水野蓉子は知っていた。彼女たちの足音が、一体何処へ向かうのか。 授業が始まるにはまだ早いこの時間、彼女たちは我先に練習室へと向かい、そして自身が十何年と愛情を注ぎ続けてきたそれぞれの楽器たちに、さらなる愛情を注ぐのだ。 楽器は少女と同じだ。そんな歯の浮くような台詞を聞いたのは中等部で、言ったのはその頃受けていた副科バイオリンの授業の教師だった。 いくら愛しても足りないくらいに、愛されなければいけない。もっと愛をと、貪欲に求める。そして愛された分だけ、音楽も少女も綺麗になっていくのだと。勿論、当時十三歳の水野蓉子は赤面した。
音楽を愛せ。 音楽を愛することは、神の創造した世界を愛することに他ならない。 即ちそれは、神を愛することでもある。
それをモットーにこの学校が設立されたのが、明治三十四年のことだ。元号が明治から三回も改まったそれは今でも変わらず続き、長い歴史を誇っている。そしてその間、この学校は数多くの優秀な音楽家を輩出してきた。 入学者は幼稚舎から大学までの一貫教育が受けられ、十八年通っていれば純粋培養音楽エリートが出荷されるという、貴族の香り漂う仕組みが現行している貴重な学園である。 「音楽は神様の学問なんだよ」 外気に一度たりとも触れたことが無い、とさえ思わせるような白い指を、少女たちは鍵盤に滑らせる。 一つ一つの音。 八十八の鍵盤の奇跡。
私立リリアン女子音楽院。 フランスからの講師も多く招くその学校は、一部ではこう呼ばれる。 コンセルヴァトワール・リリアン。
「C'est temps de musique agreable」
「神様の学問って?」 私は窓際で、練習室のある校舎に吸い込まれていく生徒たちを眺めながら、先ほどからグランドピアノの鍵盤を饒舌に鳴らしている親友の漏らした言葉に反応した。 薔薇の館の窓からは練習室に向かう生徒たちの姿がよく見える。私は彼女たちが控えめな清流のように歩いて行く姿を見るのが好きだった。 彼女たちは、授業が始まる前に少しでも鍵盤(あるいは弦や管かもしれない)に触れておきたい、と考えている。そして、朝の光の中、それぞれの悩みを抱えながら彼女たちは練習室に歩いていくのだ。その姿が作る流れを、私はとても清浄に感じる。楽器に対する少女達のストイックな愛と誠実さ、それから真新しい朝の光。 今日も新しい音楽が始まるという気がする。 「初等部に入って、一番最初についてたレッスンの先生の言葉」 言いながらも、彼女の奏でる旋律はよどむことは無い。予め決められていたかのように、運命的に、滑らかに白い鍵盤の上を滑っていく。演奏曲はベートーヴェンのピアノソナタ第二十一番。『ワルトシュタイン』と呼ばれるその曲の第一楽章は、和音の連打から始まる。テンポが変わり、長調から短調へ、単調から長調へ、変遷していく曲だ。その感触が楽しいのか、その曲は最近の聖のお気に入りだった。 薔薇の館の二階、ビスケット扉を開いた先にある、サロンとか会議室と呼ばれるその部屋には、グランドピアノが置いてある。聖は、私しかいないときにはその音色をよく独り占めにしていた。 「なんだっけな」 第一楽章の最後の一音を奏でると、聖は静かにラの音を鳴らした。 「神様の作った世界を知るための学問の一つだって」 それは何だか聞いたことがある。確か…。 「クワドリヴィウムのこと?」 「クワド……何?」 聞き返されたので、私は窓から目を離して、ピアノの前に座る聖に視線を向けた。聖は食べたことの無い味の食べ物を口に入れているかのようか顔をしていた。 「クワド、リヴィウム」 私は聞き取りやすいように区切って私はその言葉をもう一度口にした。そして、 「世界の数学的秩序に関する四学科のことよ」と、その言葉の意味を説明した。 「オゥノォー!、やめてー」 聖は大げさに耳を塞いで、頭を振った。 「そう言う難しいのはパスです」 彼女は頭を鍵盤の上に落とした。ピアノは律儀に聖の嘆きを代弁するような音を立てた。 「だいたい、どうして神様の学問が、スーガクになるのさ?」 聖が何となく私を恨みがましい目で私を見る。そんな目で見られても、私が考えたわけじゃないし。 しかし私は一度だけため息をつくと、出来るだけ聖の満足いく返答が出来るようにと、随分昔に読んだ本の記憶を辿った。何事も出来るだけベストを尽くすのが水野蓉子の生き方なのである。 「…私も本で読んだだけだけれど」 無愛想な、しかし誠実そうな活字で印字してあった。あの本のページを記憶の中でめくる。 「…五世紀頃の世界では、神様の作った世界の仕組みを知るための学問が、数学、幾何学、天文学、音楽だったっていう話。それが四学科」 「なかなかロマンティックな話だ。前二つが無ければ最高だね」 数学科の成績は決して悪くないくせに、彼女は理系の科目がお好みではないようである。私は彼女の言葉に笑った。 「音楽は元々、神様が創った世界の調和を知るための学問だった。世界の仕組みを、音の調和から探る。音楽の歴史には、哲学や宗教と密接な関わりがあるの。だからその先生はそう言ったんじゃないかしら?」 音楽は神様の学問。 「ウーン、やっぱり、蓉子が言うと必要以上に小難しく聞こえるけれど」 少し考えていた聖は、ド、ミ、ソ、と和音を鳴らした。 「そう言われると、どうしてこの学校がカトリックなのか少し解った気がするよ」 その和音は空間に馴染み、そして柔らかく部屋に溶けていく。 「ずっと疑問だったんだよね。なんで音楽院なのにカトリックの学校なのか、ってさ。そう考えると何となく筋が通るよね」 聖は「なるほどなるほど」と、一人で頷くと、サッと両手を鍵盤の上に翳して、大げさに構えた。
「よーするに、すべては、神様が創った、世界の真理なので、あーる、まる」
そう言って、再び演奏を始めた。 曲はバッハの『二声のインベンション第一番』だった。 その曲は、単音のメロディから始まり、すぐに低音のメロディがその音を追いかけるように始まる。そして、二つの違う旋律が、影響しあい、重なり、調和して、紡がれていく。 とてもシンプルな曲だ。それだからこそ、弾き手の演奏がよく見える。 聖がバッハを弾くのは珍しいことだった。聖はキリスト教的な色合いが強い曲は好まない。聖のピアノは、切迫感がある感情的な演奏が特徴だった。技巧に長け、情熱的で、それでいて、とても壊れやすくて不安定なものを感じさせる彼女の演奏は、聞き手の心を奪ってやまない。人を釘付けにするタイプの演奏者だった。 しかし聖はこの曲を、とても温かに演奏した。一音一音、とても丁寧に拾い上げ、繊細な匂いを漂わせながらも、誠実に演奏した。 一分強の短い曲なので、演奏はすぐに終わった。私は小さな拍手を送る。 「聖……貴女の演奏は、随分変わったわ」 「そう? 何でも弾ける蓉子に言われると、何だか妙な気持ちだね」 聖はピアノの前で私を見上げて、複雑な苦笑いを浮かべた。それはとても複雑な苦笑いだった。 「祐巳ちゃんの演奏はもう聞いた?」 祐巳ちゃん、と聞いて、私はすぐに、この間自分の妹の――小笠原祥子の妹になったばかりの少女を思い出した。彼女は感情表現が豊かで、とても愛嬌のある顔立ちの一年生だった。私は一目見て彼女のことが気に入ったのだけれど、彼女は初めて薔薇の館に来た時、「私はそんなに演奏が上手な方ではありません」と、山百合会の面々に両手のひらを見せて首を振った。 「あれは謙遜だったのかしら」 「当人は本気で言っていたようだけれど」 聖は、くっく、と笑った。聖は祐巳ちゃんがとてもお気に入りのようだ。横で見ていても分かる。事実、祐巳ちゃんと出会ってからだ。聖がこんな演奏をするようになったのは。 聖は少し何かを考えると、椅子を蹴って立ち上がった。 「そうだ、蓉子、ちょっとデートしない?」 「何処まで?」 私はそれまで見ていた楽譜を閉じた。朝の練習と言うのはこの学校の生徒には重要で、それは私とて例外ではない。朝早くから今日のレッスンの課題曲の譜面をお浚いしていたのだった。しかし、もう暗譜はほぼ完璧で、目を閉じていても鍵盤の位置に手を動かせるだろう。私は暗譜が得意なのだ。 「へへ、秘密の逢瀬を見学にね」 聖は鍵盤の上をさっと掃除すると、丁寧に蓋を閉めた。こういうところだけは、とても神経質なのだ。
聖に案内されてやってきたのは、旧校舎棟だった。リリアン女子音楽院は開設から歳月とともに増設されていき、現在も増築中なので、旧校舎棟は殆どもう使われていない。 そしてその案内された一角は、特に古い場所だった。建物自体も狭く、今は主に古い楽譜の保管場所になっている。学院開設当時に建てられたと思われるそこは、明治の文化を受けた当時独特の洋風建築で、建物自体が貴重なものらしい。吹き抜けのエントランスは、とてもベーシックな洋風のつくりなのだけれど、こじんまりとした佇まいは親しみがあった。 聖は何故か隣の建物の二階渡り廊下から、その校舎に入っていった。そして扉の前に立つと、すっと口元に人差し指を立ててウインクをした。どうやら、静かにしてね、と言いたいらしい。私が軽く頷くと、聖は静かに扉を開けた。扉の間から、ピアノの旋律が漏れてくる。 入るとそこからエントランスが一望できた。そしてより一層はっきりと、ピアノの旋律が耳に届く。曲もはっきりと分かった。これはベートーヴェンのト長調のメヌエットだ。私が何処から聞こえてくるのかと、周囲を見渡していると、聖が手招きをしていたので、私もそこへ行き、聖が見下ろす視線の先を見た。 一階のエントランスの隅にある、グランドピアノ。 そこに誰かがいた。 静かな朝のエントランスの空気は清浄で、窓からは真新しい光が泳ぐ埃をきらきら輝かせている。ちらりと聖を見ると、彼女の横顔は青い光を受けていて、瞳は森に差し込む一筋の光のように輝いていた。彼女の表情は、何かとても好ましいものを見ているときのそれだった。 その時演奏が楽譜と違う音を出して、私と聖はの耳は同時に反応し、声にならない声で、二人で、あ、と言った。 「違うわ、もう何をやっているのよ」 そして、耳慣れた声が苛立たしげにエントランスに響いた。
「す、すみません、祥子さま」 しかられた子犬のように縮こまった祐巳ちゃんに、祥子はムッとした表情をした。 「違うわ、祐巳。『祥子さま』じゃないでしょう」 「は、はい、お姉さま」 祐巳ちゃんはとても素直に言い直した。 すると祥子は俄かに機嫌を取り戻したようで、先ほど祐巳ちゃんが間違えた場所の譜面をなぞって弾いた。先ほど祐巳ちゃんが弾いたのとは一オクターブ低い旋律が、流れた。 お姉さま、と言われて機嫌を直した祥子を見て、私と聖は声を出さずに笑った。お姉さま。そう言われるとOKなのである。あの祥子が。 祥子と祐巳ちゃんはひとつのグランドピアノの前に二つの椅子を並べて座っていて、どうやら祥子が祐巳ちゃんにレッスンをつけているようだった。 「祥子にレッスンをつけてもらうなんて光栄だよね、祐巳ちゃん」 聖は木枠に寄りかかりながら言った。表情はとても嬉しそうだった。 「そうね」 私は素直に頷いた。祥子の技巧は、学内でもトップクラスなのだ。三年生でも、大学部でも、祥子に敵う演奏者は殆どいない。昔からそれで有名だった。所謂『神童』タイプの演奏者なのだ。 祐巳ちゃんが再び演奏を始める。 それに対し、祐巳ちゃんは、特別目立った技術を持たない生徒だった。当人が「平凡です」と強調して言っていたように、技巧的には目立ったものは見受けられない。しかし…。 「いい演奏だよね」 聖が優しい顔で呟いた。 ベートーヴェンのト長調のメヌエット。穏やかで暖かみのある可愛らしい旋律がアレグレットで演奏される、とても有名な曲だ。恐らく選曲は祥子だろう、と私は思った。祥子はベートーヴェンを得意としている。気高く、気品に満ちて、それでいて少し頑固で、それでも誠実で、そして何より美しいベートーヴェンを彼女は弾く。祥子はベートーベンが好きだった。 その自分が一番好きな作曲家の曲の中で、祐巳ちゃんらしいと思う曲を自分で選んできたのだろう、祥子は。それを想像して、私はまた笑いそうになった。 祐巳ちゃんの演奏は、祥子の弾くベートーヴェンとは随分違うものだった。 技巧的には目を引くものはないが、祐巳ちゃんの演奏は、人格が現れているかのように、親しみがあり、人間的で、愛さずにはいられない愛嬌に満ちていた。 「あ、また間違えた」 祥子がまた叱っていた。「何でこんな簡単な曲を間違えるのよ」と言う彼女の台詞が、私たちのいる二階にまで届いてきた。 私も少し不思議に思った。祥子の言うとおり、難易度の高い曲ではない。シンプルな曲だ。しかし祐巳ちゃんは彼女は時につっかえ、時に間違った音を鳴らしている。彼女は確かピアノ科の生徒だったと思うのだが、どういうことなのか…。 考えながら、遠くにいる祐巳ちゃんの顔を見て、私は「あ」と声を上げそうになった。そこには理由が書いてあった。 聖は既に気づいていたらしく、大笑いを堪える顔をしていた。 「祥子が隣にいるからだよねえ」 いつもあの調子なんだよ、と聖は言った。 祐巳ちゃんの視線は、鍵盤や譜面を見ようとしても、どうしても隣の祥子に滑っていってしまうようだった。祥子の前で演奏することに緊張し、そして間近で見る祥子の顔に目を奪われてしまっているんです、と、彼女の顔に出ていた。まるでリボンで包装された箱を両手で差し出されるかのように、とても率直に顔に出ていた。 「あんな可愛らしい表情をプレゼントされたら、私だったら抱きしめちゃうね」 聖が小声で笑いながら言った。確かに、祐巳ちゃんのその顔は、抱きしめたくなるほどいじらしく、可愛らしかった。 しかし当の祥子には、どうして祐巳ちゃんがそんな表情をするのか、わかっていないようだった。取り澄ましているが、祥子が戸惑っているのが私にはよく分かった。 「ピアノは天才でも、『お姉さま』はまだまだ初心者なのよ」 それでも一生懸命『お姉さまらしく』レッスンをしようとしている祥子の姿は、私には祐巳ちゃんと同じくらい、抱きしめたいほど可愛らしかった。
「違うわ。祐巳、音が跳ねているわよ」 祥子さまに窘められると、私の指は違う鍵盤を思わず押してしまったりする。祥子さまの前では、レッスンの先生の前で弾くみたいに、思うように弾けない。この曲はやったことがあるはずなのに。 「ただ弾くだけじゃ駄目よ」 気が入ってないとすぐに気づかれる。祥子さまは凄い。遠くで見ていた時よりも、近くにいる今の方が、より祥子さまを凄いと感じる。それから、遠くで見ていたときより、もっと好きになった。 祥子さまが私を制すると、私は大人しく下がる。祥子さまはピアノの正面に来る。 「こうよ」 そして、祥子さまが鍵盤に指を滑らせると、魔法みたいに『音楽』が広がる。先ほど私が弾いていたときとは違う音が、同じピアノから溢れ出す。 私がうっとりとしていると、すぐに演奏は止まってしまう。はっと気がつけば、祥子さまがその形の綺麗な眉を顰めている。聞き入っていた私に「貴女が弾くのよ」と言う。でも、そう言うときの祥子さまの口調は少しだけ優しい。そのことに私は段々気がついた。 時計が授業の二十分前になると、レッスンは終わる。祥子さまのレッスンは、厳しくて、でもとても楽しい。だから、いつも名残惜しい。 そして、ピアノの蓋を閉める前、祥子さまは必ずこう言う。 「祐巳のピアノを聞かせて頂戴」 今まで散々貴女の前でみっともない演奏を聞かせたじゃあありませんか、とは思うのだけれど、その一言はいつもどんな時よりも優しくて暖かくて優しいから、「何の曲がよろしいでしょうか?」と言ってしまう。すると祥子さまは必ず、 「祐巳の今一番弾きたい曲でいいわ」 と、仰られる。 夕飯のリクエストで一番困るのが「何でもいい」だとお母さんがよく言うけれど、確かに難しいなあと思う。そして私はお母さんのレシピの数ほど、得意曲の数は持ち合わせていないので、 「じゃあ、いつものでよろしいでしょうか?」 と、自信のない声で言うのだ。それまでの祥子さまから頂いたレッスンの、数々の駄目出しによる影響も含めて。 しかし祥子さまは、 「ええ、いつもの曲がいいわ」 と、それに極上の微笑みで答えてくれるので、私としてはやる気を出さないでいられないわけです。いつもの同じ曲。初めて祥子さまに私の演奏を聞かれた曲でもあり、私の好きな曲。 私は、鍵盤に指を添えた。
彼女たちの小さな会話の後、ピアノから流れ出した別の曲に、私は一瞬息をするのを止めた。 静かで、しかし印象的な低音部の冒頭。 「ショパン…?」 聖は目を細めてそれを見ている。どうやら最後にこの曲を祐巳ちゃんが弾くのが恒例らしい。それはショパンの変奏曲である『子守唄』だった。 ゆっくりと、同じバスが繰り返されて、その上を歌うように旋律が流れる。先ほどのメヌエットとは違って、それは祐巳ちゃんのペースを守って演奏されているのが分かった。祥子に見られているせいか、少し緊張している。しかし祐巳ちゃんはきっとこの曲が好きなのだろう。自信を持って演奏していた。確信を持った一音一音を刻んでいた。 窓から差し込んでくる朝の光は、段々と陽が昇り、強くなってきていた。開いたグランドピアノの中の弦たちが、その光を受けて、小さくしかしはっきりと輝く。鍵盤に呼応して弦が響くたび、その周りで光る埃の粒子も一緒に震えているように見えた。 祥子は祐巳ちゃんの奏でる音楽をじっと耳を傾けて聞いていた。それは私が今まで見たことも無いような安らいだ表情だった。祐巳ちゃんはピアノの方だけを向き、演奏に集中しているようだったけれど、それは祥子のために歌っているように見えた。そう歌っているように見える。 気が入ると、彼女の百面相は演奏中にも現れるらしい。その表情豊かな演奏に合わせて、彼女の表情も変わっていく。その所為か、ピアノと一緒に歌っているかのように見えるのだ。 横の聖をちらりと見れば、目を閉じて微笑みながら、その旋律の一音一音を全身にいきわたらせているような表情をしていた。 私も同じように目を閉じてみた。まぶたの裏でちかちかとする光の粒が見える。視覚を閉じることによって鋭敏になった他の感覚が、ここの古い校舎の匂いや空気、演奏の振動、それから演奏者の放つ感情をより一層、身体に馴染ませる気がした。 「ここへ来ると、授業に身が入る」 聖がかすかな声で囁いたので、私は目を開いた。 「音楽が好きになるから」 曲は終わりに向けて、高く歌い始めていた。 聖が、音楽なんかキライだよ、と言っていたのは何時だっただろうか。ピアノの弦を切るような演奏をしていたのは。 祥子を見る。祐巳ちゃんが少し運指を乱しても、彼女の演奏を楽しんでいるようだった。楽譜どおりに弾かない演奏を嫌う彼女が、そんな風に聴くなんて信じられなかった。 私も今日は、新しい音が出せそうな気がした。私も今日は、完璧に、なんて拘らずに思うように演奏するのもいいかもしれない。レッスンの先生は仰天するかもしれないが。 祐巳ちゃんの演奏は、最後まで優しく、穏やかに終わった。
今日も、マリア様のお庭には、音楽が溢れている。
<あとがき> 主催ということでサンプルを兼ねて、トップバッターをさせていただきました。 SSをアップするなんて久しぶりすぎて、溶けそうです。溶けてくたばりそうです。一年半ぶりくらいです。 音楽院は書いていてとても楽しかったです。 これ読んで「音楽院おもしろそーだな」とか「ぬるいんだよ…!」とか誰かが思ってくれて、何か書いてくださる方が一人でも現れたらいいなと思います。夜空に超祈る。念力で星が落ちるくらい。宇宙に大迷惑。
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