Echo
今日も静かな館内には、私の足音だけが反響する。
私は美術館の学芸員している。街から離れた小さな森の中にある小さな美術館。勤めているのは私だけ。この美術館は、訪れる者がほとんど無いからだ。毎日ほとんど誰も来ない。それでも私は毎日定刻に門の鍵を開ける。毎朝九時、定刻どおりに私は鉄格子のシャッターを開ける。そのシャッターはどんなに静かに開けたとしても、鉄格子は耳障りな金属音をエントランスに響かせる。その音に眉を寄せながら、私はシャッターを開け切る。開けた後には音の残響、そして沈黙。この美術館に音が満ちるのは、九時の開館と午後五時の閉館の時だけ。その時にだけ劈くような金属音が響き、後はひたすら静寂と、私自身が立てるかすかな足音や生活音だけ。 シャッターを開け切ると、私は館内の見回りをする。こつこつ、と残響を立てて私の足音だけが響く。その音を聞く人間も、反響を聞く人間も、私以外に誰も居ない。時折窓から差し込んだ木漏れ日が、鳥が木立を蹴るときに揺れる。微かな風のざわめきは、館内までは届かない。 この美術館の展示はまず、キリスト教絵画が並んでいる。通常の美術館に比べ、キリスト教絵画の展示が多いのがこの美術館の特徴だ。欧州から輸入した古い絵画もあるが、ほとんどがこの国の無名の画家が描いたものだ。この国のキリスト教絵画には、独特の雰囲気がある。欧州の宗教絵画のような不動さは無いが、不思議な鮮烈さがある。恐らくきっとこの国ではまだキリスト教というものが、帰化しきってはいないからなのだろう、と私は考える。それでもこのキリスト教絵画達は見る者に鮮烈な印象を与えた。 宗教絵画の部屋を抜ければ、印象派的絵画が展示されている部屋が現れる。パステルカラーに彩られた、それらの多くは箱庭のような緑の景色だ。そしてその中では、少女たちが伸び伸びとした表情で笑っている。絵画の中に広がる穏やかで暖かい風景は、見る者の心を和ませる。キャンバスに織り込まれた箱庭の四季たちは、とても清らかで、静謐な時間を保っていた。 そしてその部屋を抜けた向こうに当館の目玉とも言える展示品がある。 円形の部屋の中心にダウンライトで照らされ、くっきりとした輪郭を映し出すのは、美しいギリシャ彫刻だ。何かの女神をモチーフにしたものらしいのだが、何の女神なのかははっきり解らない。しかし躍動感に溢れるその姿からおそらく勝利の女神ではないかと言われている。 私は必ずここで立ち止まる。そしてその彫刻を見上げる。凛々しく、それでいて繊細さを漂わせるその眼差しは、どこか日本的でもある。 その彫刻は私にとって無くてはならないものだった。何も無い、誰も訪れない美術館での生活で、この彫刻を見つめる時間だけが私に潤いをくれる。 ひとしきり彫刻をみつめ、加湿器や空調の具合を確かめると、私は受付に踵を返す。実のところ、彫刻の部屋の向こうに展示室がもう一つあるのだが、そこは確認しない。そちらの方は人がこのほとんど訪れない美術館で、輪をかけて見る人間のいない場所だったからだ。誰もそんな部屋は見ない。解放もしていないので、確認する必要もない。週に一度の掃除の時以外、私自身もその部屋に踏み入ることは無かった。 私は受付にもどると腰をかけ、昨日まで読んでいた本を開いた。その白いページに、大きな窓達から差し込んでくる光たちが反射して、私は目を細めた。明るいものの、石造りのエントランスは空気が冷えていて、少し肌寒かった。冷房を切ってしまいたいところだが、ここは美術館、炎天下の下訪れる人のために冷やしておかねばならない。喩え、ほとんど人が訪れることが無くても。それが義務だ。
ある日、訪れてきたのは私と同じくらいの少女だった。ツインテールを揺らして、おっかなびっくりと言った様子で、美術館の扉を押し開けてきた。私が「どうぞお入りください」と微笑みかけると、彼女は屈託無い笑顔を浮かべて日傘を閉じた。白いワンピースが良く似合う、と思った。 彼女はエントランスに入ると、うわあ、と歓声を上げた。エントランスには大きな聖母子画のステンドグラスがあって、ちょっとしたカテドラルのような貫禄がある。彼女の声が高い天井に反響して空気へ染み渡った。 「すごいね。教会みたい」と彼女は口をあんぐりと開けて上を見上げている。その様子が可笑しくて、私はくすくす笑いながら彼女に説明をした。 「でもこれは展示品ではないのよ。以前、美術館に改装するときに、一緒にデザインされたものなの」 「へぇー。ここは美術館になる前はなんだったの?」 私は少し考えた。 「そうね、何だったかしら」
彼女は宗教絵画を先程と同じようにあんぐり、と言った様子で眺め歩き、続く印象絵画の部屋へ来た。彼女はこの部屋の展示が気に入ったようで、特にピアノを弾く黒髪の美しい少女が描かれている絵に釘付けになっていた。 そして最後にギリシャ彫刻の部屋へ来ると、彼女は不思議な笑顔を浮かべた。 「何だかこれ、ちょっと不思議だね」 私は首を傾げた。不思議、と表現されることが不思議だったからだ。 「何がどう不思議なの?」 「これ、女神様の像って描いてあるけど、なんかすごく人間ぽい気がするんだよね。これだけ綺麗ならもう少し緊張してもいい気がするんだけど、すごく身近な感じなの」 と、彼女は苦笑いを浮かべた。私は彼女に微笑んだ。 「きっとそれは、この彫刻があなたのことが好きだからだわ」 彼女はきょとんとして、彫刻を見た。彫刻がウインクをしたような気がした。 私もこの屈託無い少女が好きだな、と思った。
日が暮れる頃になると、シャッターを下ろす時間がやってくる。シャッターの閉まる瞬間のひときわ大きい金属のこすれるような音は、石造りの館内には必要以上に音が残響する。 閉館前の仕事であるチケットの管理を終えると、私は一番奥の彫刻の部屋に向かう。その彫刻は夕刻になっても変わらず、私を優しげに見つめて美しい肢体を空間に浮かび上がらせていた。私はこの時間が好きだった。彫刻は私だけを見つめるように、穏やかな表情を浮かべているように見える。それは私がそうあってほしいと願っているからそう見えるのかもしれない。けれど実際のことはきっとどうでもよいのだと思う。普段は森の奥の静謐な湖面のように揺るがない自分の心に、心地よい波紋が走るのは、この彫刻を見上げているときだけだった。 ひとしきり見つめると、私は「おやすみなさい」と彫刻に声をかけ、部屋の電灯を落としていく。最後に警報機と湿度の調整機以外の電源を落とすと、美術館の一角にある自室へ帰る。 私の自室は敷地の隅にあって、石造りの小さな部屋だった。修道士が寝るような、と以前誰かに言われた堅くて小さなベッドに腰掛けて、私はランタンに火を灯した。オレンジ色の明かりが室内を照らす。殆ど何も無い部屋だった。シャワーをあびて、簡単な食事、ちょっとした身の回りのことをすると私はすぐに寝てしまう。ランタンを消すと、静かな夜の闇がやってくる。森のざわめき、ふくろうの声。紺碧の空から差し込む月の光。そんなものに身を委ねていると、いつの間にか私は深い眠りに落ちているのだ。こうして私の一日は終わる。 日が昇りしばらくした頃、私は自然と目を覚ます。時間はいつもだいたい概ね六時。朝は少しだけ弱いので、ベッドの上で十分くらいはぼんやりとしている。それでも自分に鞭打って起き上がって、のろのろと顔を洗っているうちに段々と目が覚めてくる。それから簡単な食事をして、洗濯をして干して、部屋の簡単な掃除。 その頃には美術館の開館時間になる。 それが私の一日の始まりだ。
彼女の後、またしばらく人は訪れなかった。
定期的にキリスト教絵画を見に来るシスター以外、この美術館の扉を開ける人間はいなかった。 気が付けば秋になっていた。森の木々達は黄金色に色づき、聞こえる鳥の声も少しずつ変化していく。日差しは暖かで、風はひんやりと澄んでいた。 しかし私の変化といえば、服の袖が長くなったこと、それから読み終わった本が増えたこと、日課に門の前の掃き掃除が増えたことくらいだった。 その日、いつものように私が本に目を落としていると、外の門の方からなにやらかしましい声が聞こえた。 「――もうっこんなに遠いなんて知らなかったわよ」「行ってみたいって言ったのは――の方じゃない」「あー私のせいにするんだ。――ちゃんのばかっ」 枯葉を踏む音に混じって、二つの声が奏でる喧騒が途切れ途切れに聞こえる。その声の主はすぐに現れた。 お下げと勝気な瞳をもつ華奢な少女と、短い髪の背の高い身体の少女。背の高い少女の方は、パッと見たときには青年ように見えたけれど、言葉遣いや物腰の雰囲気で、すぐに女性であることに気が付いた。私は彼女たちに微笑みかけた。「ごきげんよう、いらっしゃいませ」 華奢な少女が私の方へ視線を向けた。背の高い少女は私に気付くと軽く頭を下げた。 華奢な少女は私を見て片方の眉を上げると、私に向かってずんずんと近づいてきて、上から下まで私を見た。私は唐突な彼女の素振りに少し動揺しながら、「何でしょうか」と聞いた。 「あなた、いくつ?」 強いまっすぐな視線で彼女が聞いた。私は自分の年を答えた。彼女はそれを聞くと少しだけ嬉しそうに、それでいて不敵な笑顔を浮かべてこう言った。 「ふぅん、同じね」 そんな彼女に、背の高い彼女は苦笑いを浮かべて、お下げ頭の少女の頭をぽんぽんと撫でるように叩いた。 「こら。いきなり失礼でしょ」 「いいじゃん、同い年なんだから。ねっ」 華奢な少女が私の瞳を覗き込んだ。私は苦笑いを浮かべて頷いた。 「ごめんなさいね」と背の高い少女が困ったように笑った。すると華奢な少女が「何よぅ」と拗ねたように言った。
絵の説明をしながら館内の案内をしていくと、折に触れては華奢な彼女が私に質問を投げかけてきた。そしてそれは大抵、絵に関することではなかった。 「ここで働いてるんだよね」「一人で暮らしてるの?」「その髪、地毛? 色素薄いし、ふわふわだよね」「学校は行った?」「イケナミショウタロウってわかる?」など。 背の高い少女の方は、そんな華奢な彼女に呆れたような顔をしていたが、印象絵画の部屋に来ると、絵のほうに夢中になった。華奢な少女も印象絵画には興味を惹かれたらしく、私への質問をやめて、絵を見た。背の高い少女と華奢な少女は肩を寄せ合うように同じ絵を見て、何かを指し示して笑いあっている。その表情はとても幸せそうで、二人のそんな姿こそまるで絵画のようだった。 彫刻の部屋まで見終わると、華奢な少女はんーっと伸びをした。 「疲れたー」 「最初の方はほとんど見てなかったじゃない」 背の高い少女が笑った。彼女の笑い方はとても涼やかだ、と私は思った。華奢な彼女は頬を膨らませると、「――ちゃんのばか」と微かな声で言って、背の高い少女を小突いた。そしてその後急に視線を宙に上げて、何かを考えるような仕草を見せた後、私にいきなり向き直ってこう告げた。 「でも、本当ね。私、美術品よりあなたの方に興味があったわ」 彼女はまっすぐな視線で私を見据えた。射抜くほどのまっすぐさで瞳を見つめられて、少し驚いたけれど、私はその視線を穏やかな気持ちで受け止めることが出来た。私は彼女に向かって微笑むとこう告げた。「光栄だわ」
ちょうど閉館時間が迫っていたので、私は閉門がてら彼女らを門まで見送った。 彼女らを送り出して、門を閉めるときに、背の高い少女が振り返った。その物言いたげな顔に、私は顔を傾けて「何か?」と尋ねた。背の高い少女はすこし複雑そうな顔をして私に聞いた。 「いや、展示品はあれだけだったの?」 あれだけ、というほどの量ではなかったはずだが。過疎地の美術館ではあるが所蔵量は少なくない。私は少し首をかしげた。 「大体の作品はご覧になられたと思いますが」 そう言うと、背の高い少女は少し寂しそうにも見える笑顔を浮かべて「うん、そっか」と頷いた。やがて彼女らの背中が森の向こうに見えなくなると、私は門の鍵を閉めて、館の入り口のシャッターを閉めに踵を返した。その時に背の高い彼女がもしかしたら、彫刻の部屋の向こうにあるほとんど誰も見ないあの部屋のことを言っていたのではないかと思い至った。彼女は知っていたのだろうか? しかし、この美術館が出来て以来、あの部屋を訪れた人は、私の勤めた限りではいないと思った。 鉄格子のシャッターは相変わらず耳障りな音を立てて、エントランスに響いた。
木の葉が散り終わり、冬が訪れると、なお一層客足は遠のいた。 雪のかけらが、美術館を囲む針葉樹の森にちらつく頃には、もう誰も訪れなくなっていた。冬が深まるにつれ、森は静かに、そして確かに白く染まって行った。その頃になるともう木立の揺れる気配も無くなる。鳥達も去って行ってしまったのだ。しかしまた春が来ればまた誰かやってくるだろう。冬というのは寒く、厳しいものだ。 夏の間冷気を送っていた空調機は古く、暖房機能が壊れているため、寒くなると館内のいたるところにストーブが置かれる。そして私の仕事に、ストーブの火入れ火消しという日課が加わる。館内には八つのストーブがある。私は、開館時には入り口から順々に火を入れ、閉館時には奥から順々に消していく。誰も来ることがないとわかっていても、館内の温度は適温にしておかなければならない。それが私の仕事だからだ。ストーブが入ると空気が乾燥するので、湿度の調整にも気を配らなければならない。誰も来ないとしていても、私の仕事は無いわけではなかった。冬の間、作品が痛まないように維持しなければならない。 雪が積もり始めると、より一層館内は静かになった。雪は音を吸収する。冬というのは穏やかで、静かなものだ。エントランスの鉄格子のシャッターだけが相変わらず耳障りな音を放ち続けていた。 積雪が厳しくなってくると、私に雪かきの仕事が出来る。 門から本館までの道を作らなければならない。しかし私はお世辞にも体力のあるほうではないので、この作業はなかなか困難だった。一日そこで費やしてしまうときもある。 スコップを雪に突き立てて、私は汗をぬぐった。振り返ると入り口まで、人一人がやっと歩けるほどのか細い道が頼りなげに出来ていた。私が一人で作れる道なんてたかが知れていた。広がる圧倒的な白い雪は、太陽光をきらめかせて眩しく輝いていた。門から向こうには道は無い。足跡すら、無い。
その日はとても天気が悪かった。
朝からどんよりと曇っていて、まるで日が明けなかったのではないかと思ったほどだった。森はか弱い朝日を遮ってしまって、館の周辺はまるで夕闇。朝から途切れなく、大粒の雪がしんしんと、容赦なく積もっていき、昼を過ぎる頃には吹雪と言えるほどの大雪になっていた。エントランスのステンドグラスの向こうに、氷のかけらが吹き付けている姿が見えた。ステンドグラスの聖母子は、氷の反射と館内の照明を受け、きらきらと輝いていた。 こんな日には本当に間違いなく誰も来ないであろう、と私は受付のストーブのそばで本を開いた。一体自分はここで何冊の本を読んだのだろう。そしてこれから何冊の本を読むのだろう。視線で文字をなぞる。たくさんの本を私は読んだけれど、一体どれだけの内容を、私は記憶にしているだろうか? そんなことを思っていたときに、急に館の扉が押し開けられ、吹雪が吹き込んできた。私ははっとなって入り口に目を向けた。 「すみません、今日は開いていますか?」 入ってきたのは一人の少女だった。エントランスの大理石の床に、彼女の濡れた靴底のラバーがこすれて、きゅっと音を立てた。彼女は私の顔を見ると、被っていたコートのフードを下ろした。その弾みで、床に彼女の頭や肩に積もっていた雪がばらばらと落ちる。落ちた雪はすぐに水に変わっていき、見る間に床に水溜りを作っていった。彼女はそれを見て慌てた。 「あ、す、すみません」 彼女の周りの床はびしょ濡れになっていった。彼女は慌てて、今しがた自分が入ってきた扉のぎりぎりまで下がった。 「いいのよ、気にしないで」 私は使うことは無いだろうと思っていたが、いつも用意してあったタオルを受付の棚から出して、彼女に駆け寄った。 彼女は黒い髪と黒い瞳が印象的な、少し小柄な少女だった。私より少し年下だろうか。彼女は私を見て少し眼を丸くした。何となく日本人形を思わせる風貌だった。雪で濡れた髪がとても艶やかだった。 「ここに雪を落としてしまっていいから。コートも脱いだ方がいいわ。それじゃ風邪をひいてしまうわ」私は彼女を促した。彼女は慌ててコートを脱いだ。コートはずいぶんと雪を吸っていたようで、重そうだった。コートの下の服まで少し湿っている。私は彼女の頭にタオルをかぶせると頭を拭いた。私の行動に彼女がタオルの下で戸惑った声を上げた。 「え、あ、ちょっと」 「いいから」 年下に見えたせいだろうか。私は自然に彼女の髪へ手を伸ばし、世話を焼くような真似をしていた。彼女は少し恥ずかしそうにしていたけど、黙って自分の雪を落とすことに専念した。 雪を落とし終わると、彼女はその黒い瞳を私に向けた。 「あの」 その瞳を身体に受け止めながら、私は顔を傾けた。すると彼女の顔がみるみる赤くなった。そして慌てたように自分の靴の爪先に視線を落とした。こっちまで恥ずかしくなってしまいそうな仕草だった。彼女は赤くなった鼻を一回すすると、体温のこもった言葉を吐き出した。 それは思いがけない言葉だった。 「こちらに、幽快の弥勒菩薩像があると聞いてやってきたのですが」 私は彼女の言葉に目を丸くした。 この美術館の主な展示は、西洋画だった。日本人画家の作品が多いものの順路にあるのは、西洋画だった。そして、この美術館に訪れる人間の目的もそれらだった。 しかし彼女は。 言葉を止めてしまった私に、黒髪の彼女は不安げな表情を見せた。 「あ、あの…もしかして、間違いでしたか? だったら――」 「いいえ」 少し早口で捲くし立て始めた彼女を遮り、私は言った。そして、少しだけ、ほんの少しだけ、彼女に気付かれないくらいに小さく息を呑んで、続けた。 「――確かにここに、それはあるわ。ついて来て」 私は踵を返すと、そこへ向かった。振り返らなかったけれど、少し遅れて彼女がついてきていることは、背中で感じられた。
美術館に、二人分の足音が旋律を刻むように反響していた。
宗教絵画を抜け、印象絵画を抜け、そして彫刻の部屋を抜けた先に、そこはあった。普段、誰も見に来ないあの部屋だ。 私はドアのノブに微かに積もっていた埃を払うと、腰の裏のベルトにつけてある鍵束を取り出した。これはすべてこの館内のマスターキーだ。真鍮の輪にたくさんの鍵が通してあり、鍵束は鈴のような音が鳴った。私はその鍵束部分を握ると、どの鍵だったか、ひとつひとつ調べるようにして、輪の中に落として行った。シャン、シャン、と鈴のような音を立て、鍵がひとつずつ零れ落ちていく。 彼女は私の少し後ろで、戸惑ったような気配を放ちながら、周囲を見ていた。この一角は、掃除はされているものの照明も当てられておらず、一目で普段解放されていないことが解る。 私は軽く息を吐くと見つけた真鍮の鍵を鍵穴に差し込んだ。そしてゆっくりと回すと、カツン、と高い音を立てて、鍵の内部が合致する音が館内に響いた。 足音、エントランスのシャッター、微かな風の音と空調の音。 それ以外の音が、館内に響いた。 扉は思いのほか軽い音を立てて、ふわりと開いた。そこは真っ暗だった。明り取りの窓だけから鈍い日差しが差し込んで来ていて、その光線の中で、扉が開いたことで変化した気流に、細かな埃の粒子がきらきら踊っていた。 「幽快の弥勒菩薩は――」 言いながら、私は壁にあるはずの電灯のスイッチを探した。 「当館のものではなく――こちらに美術館を建設する前から、この場所に――代々受け継がれてきたものなのです」 彼女が「この場所?」と小さくおうむ返しして、それから周囲の暗闇を見渡した。その時になって私の指がスイッチを探り当て、天井のダウンライトが点灯した。 淡い光に照らされて、その部屋が浮かび上がる。天井には大きな木の梁と欄間。板張りの床とさるすべりの柱は、漆を塗ったような光沢を放つ。その部屋だけがそれまでの館内とは違う日本建築だった。 天井や漆喰の壁、柱から漂う空気は古く、この部屋を見るだけで、この美術館はこの部屋から建て増すように造られたものだという事が解る。 彼女が驚いたように細く息を吐いた。 「――ですから、その存在もほとんど知られておりませんし、ご紹介がなければなかなかお見せすることも、ございません」 自分の声が、何だか言い訳のように聞こえた。 言い訳? 一体何を? 私は自分自身の感性に反論するように、自分の中で声を投げた。何も言い訳する必要なんて無い。見に来る人もいないのだから、仕舞っていることの何が変だというのだ。 しかし、それを思った瞬間に、自分の中でそれを打ち消す声が上がってしまった。 仕舞ってしまっているから、誰も、見に来ない、のだ。 「――これが」 彼女の奮えが混じる声に、私は自分の中から意識を取り戻した。彼女を振り返ると、彼女は瞳を潤ませて、部屋の中央に視線を注ぎ込んでいた。 中央には照らされた弥勒菩薩があった。 その弥勒は、高さが二十五センチほどの木製の半跏像だ。彼女はそれに魅せられたかのように呆然とした足取りで、しかし迷いなく歩いて行った。床がその度に、確かな音で軋む。 外から差し込む微かな光と、ダウンライトに照らされた半跏像の前で彼女の足取りは止まった。私は彼女を半ば追いかけるように、その隣に立った。 「きれい……」 彼女のその眼は無垢な感動で溢れていた。そして何の衒いもためらいも無く、「心が、洗われるみたい」と零した。 私はむしろ彼女の方に感動していた。こんな女の子がこんなにも目を輝かせて、仏像に感動していることに、素直に驚きと感銘を受けた。彼女はこの為に、吹雪の中を歩いてきたのだ。この像に出会う為ならば、雪で閉ざされた森の奥まで、平気で一人で入ってきてしまうのだ。雪で濡れた彼女の髪を見ながら、私はこの自分より年下であろう女の子の真っ直ぐな行動力に感嘆していた。彼女は真っ直ぐに、雪解けのような澄んだ眼で、弥勒を見つめていた。 私は自分が彼女を此処へ案内できたことに、少なからずの喜びを感じた。 「そう」 息を吐くと、先程までの混雑した気持ちがそれこそ雪が溶けるみたいに、ほどけた。 「それはきっと、あなたの心が純粋な証拠よ」彼女が私の方を不思議そうな目で見た。「観ていただいて、よかったわ」 心から、そう言えた。
彼女が拝観を終える頃、外の吹雪はさらに勢いを増していた。朝には微かに空を明るくしていた太陽の光も、今は一切見えない。エントランスの入り口に戻ってきた彼女は、扉の外を見上げた途端、困ったように眉を顰めた。 空には紫色に渦を巻く雲が、氷の欠片を巻き上げるように広がっていた。彼女が歩いてきた道もすっかりと雪で埋もれてしまい、足跡は消えてしまっている。「長く観すぎたかな」と彼女がポツリと呟く声が耳に届いた。彼女はコートのジッパーを上まで上げると、フードを目深に被った。 「それじゃあ、その、ありがとうございました」 来たときと同じような少し困ったような、はにかんだ笑顔を私に向けると、彼女は雪の道を歩き出した。私は心配になってカーディガンを羽織ったまま、しばらく彼女が歩く背中を見送った。しかし門までの道に積もった雪は既に相当に深く、彼女はゼンマイ仕掛けのブリキの玩具のような、おぼつかない足取りでゆっくりと歩いていった。雪はそんな彼女を容赦なく殴りつけていて、あっという間に肩や頭に白く積もって行くのが見えた。 「あ」 しばらく歩いて彼女は声を上げた。彼女は雪に足にとられたかと思うと、あっという間に転んで、姿が雪の中に沈んでしまった。 それを見た私は大慌てで飛び出した。しかし想像以上に雪は深く、彼女の元にたどり着く前に私は足をとられて転んでしまった。降りたての雪は、頬に痛いくらい冷たくて、雪に触れた途端にさっそく手の先の体温がじんじんと奪われるのを感じる。自分の栗色の髪の毛が白い雪の中に広がった。真っ白い雪の上で、身体を起こして雪を払い、立ち上がろうと手をつく。しかしその手は沈み込んでしまい、また雪に引っくり返ってしまう。私は元来運動神経が良い方ではない。私は自分の軽率を悔いた。 「だ、大丈夫ですか?」 近くで声がしたかと思うと、次に雪を踏み分ける音が聞こえて、小さな手で助け起こされた。よく考えれば、厚いコートとゴム底のスノーブーツを履いた彼女は、室内向きのセーターとローファーの私より、ずっと雪向きの服装なのだ。 「ごめんなさい」 恥ずかしさで顔が熱くなる。彼女はそんな私を少しだけ観察すると、柔らかく暖かい声で「いいえ」と言った。彼女は私が助けに行こうとしたことを、汲み取っていてくれているようだった。赤くなった鼻を軽くすすって、にっこりわらってくれた。 「あの…」 私は意を決して言い出してみた。 「こんな天気だから…出るのは明日にしたらどうかしら? 日が出ている方が足元もよく見えるだろうし」 私の申し出に、彼女は少し驚いた。少しだけ逡巡するような表情を見せたけれど、迷ったのは一瞬だけで、「いいんですか?」とすぐに返してきた。 「ええ」 私が微笑みかけると、彼女も笑い返してくれた。まるで鏡みたいだった。笑いあうとそれだけで胸の中が明るくなって、吹雪く雪の中で、そこだけ暖かい場所になったみたいな気がした。 ひとは笑いかけると、笑い返してくれるものなのだ、と、私は思った。その事を私は随分久しぶりに懐かしい場所へ来たような気持ちで考えた。
彼女を再び館内へ招き入れると、時計の針は五時を過ぎていたので、私は閉館の準備をしはじめた。今日のチケットは一枚。彼女の分だ。 私は少し考えると、カウンターの外に立つ彼女の目を盗んで、それを受付のカウンターのひとつの引き出しに入れた。その引き出しの中には、夏に来た日傘をさした女の子のチケットと、秋に来た二人組の女の子のチケットが入っている。そこにもう一枚、彼女のチケットが増える。 「何か手伝うこと、ありますか?」 彼女がカウンター越しに声をかけてきたので、私は大慌てで引き出しを閉めた。 「じゃあシャッターを閉めるのを手伝ってくれるかしら」 彼女はひとつ頷くと、くるりと踵を返し、美術館の入り口まで、軽やかに歩いて行った。そして天井にある鉄格子を見上げ、少し考えると、周囲を軽く見渡した。そしてすぐに、側に立てかけてある鉄格子を下ろすための棒を見つけ、それを掴んだ。頭のいい子だ。 しかし慣れてない所為か、彼女はなかなか天井にある鉄格子にその棒をひっかけられなかった。棒の先端は惜しいところで、鉄格子の側を通り過ぎていく。私は苦笑すると、カウンターから出て、フラフラ宙を泳ぐ彼女の棒に手を添えた。すると棒はすぐに鉄格子に引っかかった。 「すごい」 彼女はとても素直に感嘆した。私は何だか恥ずかしくなって、苦笑をひとつ向けると、鉄格子を下すために力を籠めた。彼女も習って一緒に力を籠めた。いつもの耳障りな音が響く。金属同士が擦れる甲高いとても大きな音だ。その音を聞いて彼女は、「うわあ」と言いながら目を白黒とさせた。その様子が何だかおかしくて、私は思わず笑ってしまった。 「すごい音だね」 シャッターを締め切ると彼女は言った。まだ彼女の頭の中には音が残っているらしく、私に向ける目が回っていた。そんな彼女に、私はまた笑ってしまった。
彼女をエントランスに待たせて、いつも通り館内の加湿器の調整とストーブのスイッチを切ってくると、私はスタッフルームへ彼女を通した。 スタッフルームと言ってもそこは常設展に並ばない作品の保管庫と書類庫を兼ねており、スタッフのためのスペースは小さい。ファイルが並んだ机が一つと、小さなシンクがひとつあるだけだ。しかしスタッフは私しかいないのだから何ら問題はない。 彼女は物珍しそうにそれらの景色を眺めながら、「そういえば他の展示はあまり観てないや」と今更気付いたように呟いた。私はそんな様子に笑いながら「明日観て行ったらいいわ」と言って、さらに奥の扉を指し示した。 その扉を開けると小さな渡り廊下に出る。灯かりのない冷え冷えとした少し長い廊下を抜けると、スタッフの居住区である部屋に辿り着く。 「何も無いけれど」と言いながら私はランタンに灯りをいれ、ストーブに薪を入れた。自室に人を通すのは殆ど初めてなので、少し気恥ずかしかった。 彼女は目をくりくりさせながら、辺りをひとしきり見回すと、ストーブに火をつけようとしていた私に目を止め、声をかけてきた。 「薪のストーブ? だったら私やる!」 何か手伝いたい、とあんまりはっきり書いてある顔で言うので、私はまた笑いながら「じゃあお願いするわ」と場所を譲って、お茶をいれようと台所へ向かった。支度をしながら肩越しに彼女を見やると、成程、彼女とてもよい手際でストーブに火を点けていた。その火は、私がいつも点けるときよりも、随分勢いよく燃えているように思えので、その事を尋ねると、彼女は「ちょっとコツがあるんだ」と少し誇らしげに答えた。 窓の外は未だびゅうびゅうと強く雪が吹雪いており、時折桟がカタカタと風に揺れている。本館と違い、この部屋はよく外の音が聞こえた。先ほど外に出たときよりも、雪は強くなっているようだった。明日の朝にはもしや窓が凍り付いているかもしれない。 部屋の中央にあるテーブルにドライフルーツの入った籠と一緒に温かいお茶を出して、彼女に席を勧めると、彼女は喜んで飛んできて私にしきりにお礼を言った。にこにこと笑いながら彼女は席につき、お茶に口をつけると少し意外そうな顔をした。 「グリーンティだ」 「ええ。嫌いだった?」 「ううん、好き」 彼女はまたにっこりと笑った。私も笑い返した。私もグリーンティが好きなのだ。 薪がはぜる音が聞こえる。段々と暖かくなり始めた室内で、彼女は私にいくつか質問をしてきた。 「ここでは一人なの?」 「ええ。あまり人が来る場所ではないから、私一人でやっているわ」 「毎日大変でしょ?」 「そうでもないわ。それに日曜日はお休みさせていただいているし」 へえ、と零して彼女はお茶に口をつけた。彼女が息を吐くと湯気がふわっとそれにあわせて揺れて、普段一人で暮らしている私には、他人のそんな様子がとても新鮮に見えた。 しばらくして、彼女がもぞもぞと足元を少し動かしたので、首を傾げてみると、彼女はすこし靴の中に雪が入り込んでしまったと、言った。そういえば彼女は来たときから雪まみれで、タオルで拭いたもののずっとそのままなのだ。私は彼女にお風呂を勧めて、彼女の靴や手袋やコートをストーブの前に吊るして乾かした。 昨日の作ったスープを温めなおしていると、彼女がお風呂から上がってきた。そして出てくるなり、開口一番「いい匂い」と言った。どうやらお腹もすいていたらしい。お風呂上りのほかほかした顔をしながら、遠慮がちに鍋の中を覗き込んできた。その仕草が臆病な草食動物みたいだったので、私はまた笑った。 彼女は本当に私にたくさんのお礼の言葉を言った。あんまりにたくさんの言葉だったので恐縮してしまうほどだった。そして「おいしい」としきりに口にしながら、私が用意した夕食をあっという間に平らげてしまった。私が半分も食べ終わらないうちに、お皿を空にしてしまったので、彼女は少しばかりばつが悪そうな顔で頭を掻いた。 寝る前に窓の外を見ると少し雪が和らいでいた。この部屋にはベッドがひとつしかないので、私と彼女は同じベッドで寝ようということになった。談笑しながら一緒にシーツを広げていると、何だか今までもずっとこうしていたみたいに思える。まるで姉妹みたいだ、と考えて、一人でくすくすと笑った。すると、 「何だか姉妹みたいだね」 枕にカバーをかぶせながら彼女が、はにかんだ笑顔で言った。 聞けば、彼女には妹がいるらしい。私にも兄がいる、といったら「お兄さんがいるってどんな感じ?」と聞いてきた。私は「歳がとても離れているし、兄もすぐに家を出てしまったから、あまり長い間同じ家にいることは無かったのよ」と答えた。それから「けれど近しい兄妹がいるとしたら、きっとこんな感じなのね」と言った。すると彼女は何故かとても照れてしまった。 ランタンの灯りを消すと、いつものようにあたりは真っ暗になった。明かりが無いと声がよく聞こえるような気がする。彼女の声も、自分の声もいつもより耳元で聞こえる気がした。雪の吹雪く音も大きく聞こえて、しかしそれでもちっとも寒い気がしないのは何故なのだろう。 眠りにつくまでに彼女とした話は、本当に他愛のないものだった。例えば今彼女は少し離れた街に住んでいて、そこで勉強をしているということ。今住んでいる海沿いの街のこと。様子。そして彼女は仏像を見ることが何よりも好きだということ。仏像の話を聞いて、わざわざここまでやってきたということ。誰から聞いたのか、と尋ねると、彼女はわざと真剣めいた声でおどけたように「五十五歳年上のボーイフレンド」と言った。それで私はまた笑ってしまった。 そのうちに段々と会話も途切れ、やがて隣から寝息が聞こえてきた。闇に慣れた目で見えるのは、昼間に話していた時よりもずっと幼く見える寝顔だった。こんな雪の中を歩いてきたのだから疲れていて当然だ。彼女はあっという間に深い眠りに落ちたようだった。あどけない顔で無防備に寝息を立てる彼女はなんだかとても可愛くて、もしも自分に妹がいたらこんな感じだろうか?と私は再び考えた。 そして不意に、吹雪の音が途切れていたことに気付いた。 外へ目を向けると、凍りついた窓の向こうに、木の濃いシルエットと紺碧の空、白く切り抜いたような丸い月が見えた。白い月は、満月にはまだ遠いものの、明朗な色で空に笑うように輝いていた。 目を閉じる。 隣から伝わるのは仄かでやさしい体温と石鹸の匂いで、私は気づけばいつもよりずっと深い眠りについていた。
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