Glass of glass...
何が悲しいの、と聞かれて答えられなかった。
令ちゃんが時々遠い目をするようになったのは、いつからかだったろう。思い出せない。 それがもしも――もしも私がロザリオを突っ返した時からだとしたら。だったとしたら…私はすごく悲しい。 もしもそれが切っ掛けだったなら。 令ちゃんが何処も見てないような目をするのが、私がロザリオを突っ返した所為だったとしたら、私はきっと大声を上げて、泣いて暴れてしまうに違いないだろう。 小さい頃みたいに。
ガラスのコップ
小さい頃に、一回だけ本気で泣いて暴れたことがある。 確かその日は冬だった。ぶ厚い毛糸のカーディガンをお母さんに着せられていたから。 多分、五歳か六歳くらいの頃。お母さんたちは出かけていて、私は自分の家の居間のテーブルでジュースを飲んでいた。令ちゃんが近くのソファに居て、夕方からやっている子供向けのテレビを見ていた。そう、夕方だった。なんだか心許なくなるような、日が沈み始めたばかりの、ほんのりと暗くなってきた冬の夕方だった。 確か、明日の日曜日に公園に行きたい、と私が令ちゃんに言った気がする。その頃の私が公園に行くには、令ちゃんの同伴が条件だった。 令ちゃんはテレビを見たまま、「明日はいけない」と言った。私は令ちゃんの方を見た。令ちゃんはテレビに集中していて、私が振り向いたのにも気づかなかったみたいだ。 令ちゃんが私のほうを見てくれない。それがひとつめのスイッチ。 どうして、と少しムッとした声を出した。 何でもすぐに怒るのは、私の自己防御だった。そうやって小出しにストレスを発散していないと、長い病気生活には耐えられない。終わりの無い抑制の生活は、すごくフラストレーションが貯まる。それを発散しないと、頭のどこかの歯車が、万力で曲げられていくような恐怖があった。その所為か幼い私は、わざと何でもない時にも怒るようなところがあった。 でもその時は、そういういつもの発散のための怒りじゃなくて。…何というのだろう、上手く言えない。 そう、何と言うのか、何だかとても焦っていたのだ。いつもの八つ当たりじゃなくって、もっとせっぱ詰まった何かだった。 今の私でも説明が出来ない感情を持て余して、幼かった私は「どうして」とただ怒った。怒る以外にどうしていいか分からなかったのだ。 令ちゃんには、それくらいじゃいつもと違うことが分からなかったみたいだった。いつもの私の我侭、と思ってテレビを見たままだった。令ちゃんは答えた。 「明日はほかの道場に稽古をしにいく日だから」 そう言われて、数日前にそれを聞かされていたことを思い出した。令ちゃん当人からは勿論、お母さんも次の日曜日には令ちゃんがいないのよ、と教えてくれていたのだ。私はそれを失念していたことに気がついた。 その時、私は何だか傷ついた。 不思議だとは自分でも思う。しかし幼い私は何だか傷ついてしまったのだ。まず令ちゃんに置いていかれる感覚を想像して、傷ついた。剣道の道具を背負って、玄関に立って、行ってきますと私に背を向けて出て行ってしまう令ちゃんを想像して、傷ついた。それから、その後、玄関に取り残される自分の姿を想像して傷ついた。 公園に連れてって、と言ったのに拒絶されたことにも傷ついた。忘れてそんなことを言った自分にも傷ついた。 「…よしのも行く」 だから、そう言ったのはすごく精一杯の言葉だった。 令ちゃんは当然、いつもの由乃の我侭だとしか思わなかったようだった。 「由乃は駄目だよ」 と、困ったように言った。それが最後のスイッチだった。 私は金切り声のようなものを上げて立ち上がると、テーブルの上にあるものを令ちゃんに投げつけた。リモコンを投げて、布巾を投げて、しょうゆ差しを投げた。 突然の嵐に、令ちゃんは腕で顔をかばいながら目を丸くした。当然だ。制止の言葉も出ないくらいびっくりしたようだった。私は声を上げて泣きながら、椅子をひっくり返して暴れた。 最後に私が投げたのは、ジュースの入ったガラスのコップだった。コップは黄色いオレンジジュースを撒き散らし、令ちゃんのほうに飛んでった。 割れる音はしなかったと思う。でも床に落ちる音は聞こえた。ごんっ、という音の後、ごろり、と転がるような音を立てたので、割れなかったんだと思った。 しかし、床を見ると、投げたガラスのコップは半分になっていて、周りに小さな破片が落ちていた。 割れた。 と思って、令ちゃんを見ると、令ちゃんは顔に被せていた腕をゆっくりと下ろしているところだった。 そして令ちゃんの目が見る見るうちに驚愕に染まっていくのと、床に赤い雫が落ちるのは同時だった。 令ちゃんの右の手のひらからは、血が出ていた。 私はさっと自分が青ざめていくのを感じた。それほど大きな傷ではなく、出た血の量も僅かだった。しかし私は、自分のしたことで令ちゃんが血を出したという事実に、崖から突き落とされたような気持ちになった。私はすぐに令ちゃんの名前を呼んで近寄ろうとした。 「由乃、止まって!」 令ちゃんが血の出てないほうの手のひらで私を制止した。 「かけらが落ちてるかもしれないから、こっち来たら駄目だよ」 私は今でもそのことを思い出すと、令ちゃんという人に呆れてしまい、それから愛しくて涙が出そうになる。どうして、どうして、どうしてどうして、貴女はそうなのだ、と肩を叩きたくて仕方がなくなる。 令ちゃんは私が取り乱したのを見て、逆に落ち着いたらしく、しゃがんで破片を拾い始めた。「ちりとりと、ばんそうこう持ってきて」と笑いかけた。 その後は二人で一緒に片付けた。令ちゃんの傷口は、大きい絆創膏で綺麗にとめることが出来た。 私は令ちゃんに何度も「ごめんね」と言いたかったのだけれど、ちりとりを渡すときに「ごめんなさい」と一回しか言えなかった。令ちゃんはそれで許してくれた。さっきの私の怒り方が普通じゃなかったことくらいは、分かってくれたのだ。 片付けながら、私は弁解を繰り返した。ごめんなさいの代わりに、「今のは違うの」と何度も言った。何が違うのか分からなかったけれど、とにかく違うのだ、というのを繰り返し訴えた。 令ちゃんは、うん、うん、とよく分からないようだったけれど、ただ頷いていた。 お母さんたちが帰ってきて、令ちゃんの手のひらを見ると、当然のことながら、「その怪我、どうしたの」と言ってとても驚いた。 私はその話が出るとパッと逃げ出して、リビングの扉のところに隠れた。叱られるのが怖かった、というより、説明することが出来ないから、逃げ出したのだった。でもその必要は無かった。 「ジュース入れようとして、コップ割っちゃったんだ」 令ちゃんは簡単に私を庇う嘘をついた。 令ちゃんが堂々と嘘をついたのを見たのは、それが生まれて初めてだった。私はすごくほっとして、令ちゃんにありがとうと思うと同時に、ショックを受けていた。 それ以来、私はどんなに癇癪を起こしても、クッションと枕以外のものは投げたことが無い。
令ちゃんがもしも遠い目をするようになったのが、私が突き返したロザリオの所為だったら。私はきっとその時のように暴れてしまうだろう。 私は私と令ちゃんの未来の為に、私なりに悩んで、戦おうとしてやったことだったからだ。それが私と令ちゃんを分かつ切っ掛けになったのだとしたら、本当に私は。
令ちゃんの受験の日が近づいていた。 冬の風は冷たくて、私たちの家の中は温かい。ゆっくりと太陽は沈んでいき、空の光が段々弱々しくなっていくのが見えた。リビングでテレビを見ていた私はあの日と同じような、心許ない夕方に、私はどうしても令ちゃんの顔が見たくなって、支倉家の方へ行った。 隣の家の玄関を開けて、「おじゃまします」と声をかけたけれど、一階には誰も居ないようだった。私は静かに支倉家の廊下を歩いて、私は二階の令ちゃんの部屋に向かった。二階の廊下はひんやりとしていて、しばらく誰も通っていないような感じがした。 私はそっと令ちゃんの部屋のドアを開けて覗いた。 見慣れた少女趣味な部屋。そこには冬に特有の、薄い膜のような闇が落ちていた。電気はついていないけれど、ベッドの上に令ちゃんが居るのは見えた。電気をつけるかどうかはまだ微妙な時間帯だ。耳を澄ますと、かすかな寝息が聞こえた。 机の上を見ると、勉強道具が開いてある。どうやら勉強に疲れて一休みしているうちに眠りこんでしまったらしい。私は部屋の中に足を踏み入れた。 令ちゃんは余程疲れていたのか、私がベッドの横に立っても目を覚まさなかった。令ちゃんは暖かそうなフリース生地のパーカーとジーンズと着ていて、無防備な顔をして眠っていた。そのふわふわした柔らかそうな生地のパーカーを見ていると、触りたくなってきてしまう。きっと顔をうずめて匂いをかいだら、令ちゃんの匂いと洗濯物の匂いがするんだろう。そう思うと我慢が出来なくなって、私は令ちゃんのベッドに猫のように飛び乗った。 その衝撃に、さすがに令ちゃんは目を覚ました。 「…よしの?」 私はそれには答えないで、令ちゃんのお腹の上に、どん、と横から倒れこんだ。令ちゃんが「ぐえ」と声をあげたのが聞こえた。そしてそのまま令ちゃんのパーカーに顔をうずめると、柔らかな生地が頬に触れる。想像通りの匂いがして、私は急に機嫌がよくなった。 私は令ちゃんに猫みたいにゴロゴロと擦り寄った。 「勉強サボったら駄目でしょー」 自分でもよく分かる。すごい甘えた声。令ちゃんの前でだけ出す、我侭で甘えん坊な由乃の声。もしも録音されていたら割腹自殺できる。 令ちゃんはこの声を出すと、あっという間に優しくなる。とっておきの声なのだ。 「今は休憩だよ」 にやけただらしない声が返ってくる。それにちょっぴり何だかイライラするけれど、私が狙ってやったんだから、令ちゃんは悪くない。 「嘘、ずっと寝てたくせに」 私は起き上がって改めて令ちゃんの上に飛び乗った。わざとお腹の上に、どん、と。また令ちゃんが潰れたカエルみたいな声を出す。 「由乃苦しい」 令ちゃんが笑いながら抗議してきた。 それに私はわざと真面目な声を出して、静かに聞いた。 「…重い?」 笑っていた令ちゃんがくりっと瞬きをして、私の顔を見た。それから、すっと笑って、 「重くないよ。由乃は軽い」 と、言った。 そしてそれを示すみたいに、令ちゃんは下から手を伸ばして、猫の子みたいに私の胴体を軽々と両手で持ち上げると、安定した形で私に自分の上に座りなおさせた。 令ちゃんの顔を見下ろす。日がさらに沈んできたせいか、令ちゃんの顔が少し暗くなって見えづらかった。でも電気をつけに行くのも面倒臭くて、私は、見えないならもう見なくていいや、と令ちゃんの上に倒れこんだ。令ちゃんはちょっと慌てて、私を抱きとめた。 「また寝ちゃいそう」 令ちゃんは私を抱きかかえて、すでにちょっと眠そうな声で言った。くっつき合っていると安心するのか、令ちゃんはそのまま寝てしまうことがよくあった。私が答えないでいると、令ちゃんはそれきり黙った。 沈黙の音が聞こえる。耳鳴りみたいな、音だ。静寂を最初に「シーン」と表現した人は天才だと思う。本当に、しん、という音だから。でももっと耳を澄ますと窓の向こうで車が走る音が聞こえた。 そうやってじっとしている間に、日はどんどん暮れていった。ついに向かいの家の窓の電気がついて、蛍光灯の淡い光が対岸のこの令ちゃんの部屋まで届いた。私は令ちゃんにぎゅっと腕を回した。私も少し眠くなってきた。このまま寝たら、令ちゃんのお母さんが起こしに着てくれるのだろうか…。 しかし私はふと思いついて、令ちゃんの右手を取った。暗い中ではよく見えないので、私は枕元に手を伸ばして、電気スタンドのスイッチを入れた。 「由乃?」 令ちゃんは本当にうとうとしていたらしく、ちょっと迷惑そうな声を上げた。私は気にせずに令ちゃんの右手のひらを電気の下で観察した。 あの日。 令ちゃんの傷は小さかったけれど深くて、夜になって腫れてしまい、令ちゃんは泣いて痛がったらしい。次の日はお医者さんに行って、縫ってもらうことになった。令ちゃんは翌日の稽古へは行けなかった。それどころか、一週間も竹刀を握れなかった。 それでも令ちゃんは私に一言も文句を言わなかった。令ちゃんが痛くて泣いたことも、私は知らなかった。お母さんが教えてくれるまで知らなかった。 十八歳の令ちゃんの手のひらには、うっすらとその跡が残っていた。確信を持ってじっと探さないと、見つけられないほど微かな傷のあと。 以前読んだ本には、『人間は齢を重ねれば自然と細かい傷だらけの手になっているものだ』と書いてあった。令ちゃんの手は正しくそうだった。手のひら以外にも料理の時に包丁で切ったところや、ささくれた竹刀で怪我をしたものとかが残っていた。 令ちゃんも私が何を見ているのか気づいたらしく、苦笑いみたいな声を出すと、すっと宙に視線を向けた。 私は令ちゃんを見上げた。 それは最近よく見るようになった、何か考え事をしているような、何処を見ているんだかわからない表情だった。私のことを見てない表情。いや、もしかしたらそれはただ単に「私が令ちゃんを理解できてない瞬間の表情」なのかもしれない。だから私には、令ちゃんのその表情が「遠い顔」に見えてしまうのかもしれない。 令ちゃんのその顔は、私の知らない間に令ちゃんの何かが変わって、何かが決まってしまう。そう言うことを考えさせられる。 その切っ掛けを作ったのは、私かもしれない。ロザリオを突きつけて、私と令ちゃんは別個体なのだと令ちゃんに突きつけたのは、私だったのだ。 私は、目を閉じた。 間違ってたとは思わない。けれど、もしも令ちゃんと離れていくのが――その所為だったというのなら、私はまた泣いて暴れるのかもしれない。金切り声を上げて、椅子やテーブルをひっくり返してしまうかもしれない。 また、令ちゃんめがけて、ガラスのコップを投げてしまうのかもしれない。 「由乃…何をしてるの?」 令ちゃんが不思議そうな声を上げた。 私は今、令ちゃんの胸に耳を当てて目を閉じていた。私は目を閉じたまま答えた。 「聞いてるの」 「何を?」 令ちゃんの声が令ちゃんの肋骨の中で、響く振動を感じる。 私は令ちゃんの心臓の向こうにあるはずの、音を探した。 耳では聞こえない音。私が聞き損ねた音。 「こうしたら聞こえるかなぁ、って思ったの」 私がかすかな声で言うと、令ちゃんはどうしてか黙ってしまった。もう空は真っ暗闇で、令ちゃんの表情は何も見えない。分かるのは触れたところから伝わる令ちゃんの体温と、肌に触れる冬の冷えた空気だけ。それだけが、感覚にはっきり届く。 しばらくして、令ちゃんが私の頬に手を伸ばして、目元を親指で触れた。 「何が悲しいの?」 震える声で令ちゃんが言った。
何が悲しいの、と聞かれて答えられなかった。
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