The Catcher In The Lie.
「音速パンチ」
『もう駄目です。死にます。』
私が書いたのはそれだけだった。 キルケゴールが言うような絶望の病に陥り、ニーチェの言うような精神の深淵を覗きこんで、死を考え、私の頭脳・佐藤聖スーパーコンピューターが最後の言葉として弾き出したのは、それだけだった。以上だった。 ルーズリーフにそれだけを書いて、手にとって見てみると、多くを語らないところが逆に哲学的で、高尚に思えなくも無い。文学的だと言えばそうかもしれない。しかし遺書としては三流だった。いかにも法律的に役に立たなそうな感じだ。ルーズリーフと言う時点で、社会的能力の無さを露呈している。しかし、私自身の社会的能力の無さもほぼ同等なのでこれはこれで分相応かもしれない。つまんない奴にはつまんない遺書で十分なのである。 私は机の上にある堆積物を、腕をトンボにして除けると、見えやすい位置にそれを置いた。 「うむ」 これで準備は完了だろうと思った。 準備はそれだけだった。 他には何もしていない。例えばシンクの生ごみは捨てていないし、洗濯物は取り込んでいない。あまつさえ、本棚の奥だのパソコンのHDだのには私の秘密の花園が、そのままの形で残っている。私のアパートは手付かずの自然のままである。最後の楽園である。 それらの恥ずかしブツを処理するということは、勿論考えた。しかし考えて、考えた上でやめたのである。 死ぬのであれば、そんなのもう関係ないだろう。 と言うのが大体の理由だが、はるか昔私が紅顔の美少女だった頃に読んだ「そんなのを気にしているうちは、本当には死なないものだ」という、さくらももこの漫画の一節を気にしているところもある。 それに『佐藤聖の評判』と言うのはもう既に、地の底の井戸の底の落とし穴の底にまで落ちている自覚があったので、そんなものを処分したところで大して変わらないだろうと思った。せいぜい地の底の井戸の底になるくらいのものである。 はあ、と大きく息を吐いた。その音は六畳間の空間にすぐ溶けて消えてしまう。もう少しくらい余韻を残してもいいと思う。いけず。 そこまで私の評判が落ちたのにはそれなりに理由がある。時間もかかった。 それを説明するには、私がどこで生まれてどう育ったかとか、どんなに扱いづらいお子さんだったかとか、私が生まれる前に両親が何をしていたかとか、そういうデビット・カッパーフィールド的な何かを説明するところから始めるべきなのかもしれない。 だけれど、そんなことをわざわざ聞きたい奴なんて何処にもいないと思うし、別段語りたいとも思わないので、割愛。割愛って言う言葉は「愛で割く」と書くんだぜ。その「割」には愛があるのだ。何より私はデビット・カッパーフィールドの小説を読んだことは一度も無いので、手短に行こうと思う。巻きでゴー。
要するに、私は現在完全たるひきこもりの完全たるニート状態なのである。
ひきこもり歴は今年で三年である。三年は周囲の人に見捨てられるに足りない時間ではない。 これでは少し足りないかもしれない。唐突過ぎる。 もう少し説明しよう。 例えば、転がり落ちる、始まりについて。 大学三年生のことである。佐藤聖は、再び電撃的に恋をした。 同じ大学のひとつしたの女の子だった。名前は伏せる。何故ならそのお相手の彼女は、読者皆様の知りうる人物ではないからだ。彼女は外部受験で入ってきた、同じ学部の、なのに得意科目は政治経済学の、極普通の眼鏡っ子であった。 眼鏡っ子といえば、私の数少なき友人である加東さんのことは忘れてはいけない。勿論、私は加東さんの眼鏡っ子ぶりにも畏敬の念を抱いており、彼女の眼鏡ぶりに感嘆の溜息を漏らさない日は無い。しかし、その彼女の眼鏡っ子ぶりはまた加東さんとは一線を画していたのである。 猛烈にラブリーでセクシーでダイナマイツだったのである。 佐藤聖に眼鏡属性があったのかというのはまた日を改めて論じるとして、とにかく彼女はキュートでセクシーでダイナマイツな女の子だったのだ。 栞とは全く違うタイプだったのだが、私はどうしてか一目見たその瞬間から、彼女に電撃的に恋をしてしまった。佐藤聖的世界観からして彼女は、形而上でも形而下でも、ウルトラきゃわゆい女の子だったのだ。 それもまあ既に過ぎてしまったことであるので、結論から言おう。 私の恋は玉砕で終わった。 栞の時のような、甘く切ないロマンティックペインも残さない、完全無欠な玉砕であった。見事に私を打破した。鮮やかなほどだった。 聖さんがチャーミングでセクシーでダイナマイツなことは読者の皆々様もご存知であろうが、如何せん人間には越えられない壁と言うものも存在する。 彼女は完全無欠のヘテロセクシャルだったのである。 その上、彼女は鉄壁なるホモフォビアの持ち主だった。 『ホモフォビア』という言葉にあまり親しみの無い読者の皆様の為に、その言葉について説明をする。その言葉について説明をすることは、彼女への玉砕の理由を物語ることと同じである。 ホモフォビアとは、『同性愛者に対する不合理な恐怖感・嫌悪感・拒絶・偏見』のことである。 もうこれ以上何を言わなくても、賢明なる方々には十分だろう。 彼女は、前時代的どころかいっそ人権侵害と言えるほどに、明快なホモフォビアの持ち主であった。 そして、彼女の問題は――もしも私が彼女を恨むことがあるとしたらこの点だけなのだが――彼女は、自身のホモフォビアを全く匂わせもせず、完全に隠していたことである。 その問題がどのように作用したか、賢明なる読者の皆々々様には想像に難くないことであろうことと思う。事実、ほぼ最悪に近い形でそれは発現した。 かくして、私の恋は完全破壊で玉砕されたのである。死にたい。
人間的自信や尊厳やらを失った私はその後、極度の鬱に陥った。そしてそのまま、私の自我は遠い場所へ旅へ出た。これは勿論比喩である。実際はほぼ自宅のアパートの中で、その旅は行われた。自分探しの為に日本の最北端まで行くような気力と根性は、佐藤聖には無かったのである。 私が旅から戻ってきた頃、また新たなる現実が私の眼にねじ込まれた。 私は大学五年生になっていたのである。 リリアン女子大学は通常の四年制の大学であり、大学院も存在する。 しかし私は大学五年生であった。四年生でもなく、聴講生でもなく、大学院一年生でもなく、五年生であった。 リリアンと言う品行方正なお嬢様が集う学校で、留学も休学もしていない五年生の立場と言うのはまさしく針のむしろに正座をさせられ、その上にブロックを三つか四つ腿の上に置かれたようなものである。 まもなく私は『たいがくとどけ』とか書いてある封筒を大学に提出しにいくことにした。それは不思議な封筒であった。その封筒がもたらすものは、重圧からの開放であり解雇であった。 すべての事務手続きを終え、学校を去るとき、幼稚舎から十八年プラス五年も私の社会的地位を証明してくれていたその校舎を私は見上げた。その時の気持ちを此処に記すことは出来ない。あまりにも哀しすぎたからだ。宇宙的に哀しすぎた。私は五分ほど見上げてから、自分のアパートへ帰った。秋も終わりのことだった。 思った以上に語りすぎてしまった。 話し始めると人間、案外長くなるものであるな、と思う。私がしばらく人間と人間らしい会話をしていない所為なのかもしれない。
ともかく、ヒキコモリへの道は後はとても簡単だった。 その時点で随分友人は離れていたし、それから二年間も何もしない、アルバイトも何もしない状態で、家の外に出なければ、自然と誰もが私を見放す形になる。 元々、友人付き合いが多彩とは言えなかった私は、あっという間に孤独になった。だけれど、それは私にとって望むところだった。誰とも会いたくない。付き合いたくも無い。説教も、励ましも、慰めも欲しくなかった。 二度目の失恋はある後遺症を私に与えていた。 一言で言うなら『人間不信』である。
その翌年の春に、自分の酷い生活ぶりに「せめてフリーターになろう」とアルバイトの面接に出かけた。 するとどうだろう。久しぶりに人と会話したからだろうか。人と目を合わせると、恐ろしいほどの汗が出て、声が震え、手が震え、恐怖で心臓が早鐘を打ち、止まりそうになるのである。 そして「目の前の人間が、私に悪意を持っている!」という妄想が頭の中をチンドンヤのように駆け巡るのだ。 訂正しよう。彼女が私に置いて行ったのは『対人恐怖症』である。 彼女が残したものは、「私のことを世界中の人間が嫌悪している!」という被害妄想で、私はそれに全身を支配されてしまった。 そのアルバイトの面接はロクに何を喋ったかわからず、逃げ出し、とにかく走って走って、自分のアパートの方角へ、バスを使うべき距離であるにも関わらず、走った。 「マリア様!」 玉川上水の桜は綺麗であった。よく覚えている。私は涙やら鼻水やらなんやらを流しながら、叫んで走り続けた。 「マリア様! マリア様!!」 何故、そんなことを叫んでいたのか。私が最も不信とする人物の名前である。それでも私は彼女の名を呼んで、全力疾走していた。 現在の玉川上水は浅いので、突発衝動的に太宰治になることも出来なかった。
これが顛末である。 あとはただ今現在まで、アパートの外にロクに出ることも出来ず、時折訪れる実家からの電話や訪問と戦いながら暮らしていただけだ。 ついでに言うなら、私の両親はどうしていたかというと、彼らは私を以前から扱いかねており、今回の件もどうしていいかわからないようだった。 そして何よりも、母と父は以前からの不仲が高じて、現在こじれにこじれた離婚調停の真っ最中だったので、それどころはなかった。 そんな時に、一度外に出た二十四の娘を家に引き戻すのは得策とは言えない。運がいいのか悪いのか、私の件は常に『保留』扱いとなっているようだった。
今度こそもう、語ることは無い。 これで以上である。
私は自分のルーズリーフの遺書を机の上に置くと、コートを着て、財布をポケットに入れた。 そしてインターネットで調べた自殺の名所と名高い滝までの経路をプリントした紙を四つ折にして、財布とは逆のポケットに入れた。 勿論、携帯電話なんて解約したのでもう無いし、持って行く必要もない。 私は鏡を見ることもなく、少しだけ息を吸って、アパートの外に出た。 コンビニで預金を総て下ろすと、私は最寄の駅から都心へ向かった。そこから夜行電車に乗り換えるのである。 切符を買う時、もうどうせ使い道は無いのだ、と思ってグリーン車にしてやった。 初めて乗ったグリーン車の座席は恐ろしくふわふわで、大変これは無駄である無駄であるぞ、と私はそこにちょこんと座りながら思った。そして私は、金を出せばこれほどまでに優しくなる資本主義国家に対して、自分が行うデモ行進を妄想した。三千万人の先頭に立ち、プラカードを持つ自分。プラカードには『女性にBL以外のエロ本を』と書いてあった。 私の脳みそはくだらないことにはよくまわる。 そう、私はくだらないことをよく考えた。 狭苦しい自分のアパートの六畳間で、布団に包まっている時によく考えたものだった。 それはとてもくだらない妄想だった。 ある日突然このアパートに栞がやってきて、私を優しく包み込み、救済し、真人間に戻してくれるのである。まさにエンジェル! 「ああ」 私はそれを考えると、頭を抱えてしまう。なんて馬鹿なのだろう。しかし、それは涙が出そうになる妄想だった。 栞は私を受け入れてくれた人だった。確かに私は振られたけれど、本当のところでは拒絶はしなかった。 彼女に、もし、もう一度会えたら。 その妄想の後は、必ずと言っていいほど、栞に猛烈に会いたくなった。 真人間にまで戻してくれなくっていい。優しい言葉をかけてくれるだけでもいい。いや、そこまでしなくってもいい。握手できるだけでもいい。いや、そんなこともなくっていい。私の前で、もう一度微笑んでくれたら。それだけで私の尊厳は救われる気がする――。 成る程、私は馬鹿である。 救いようが無い馬鹿である。 これはもう死んで直すしかない。死んでも直るか微妙なところだ。 何もかもが嫌だ。 私は自分自身に付き合うことに、飽き飽きしたのだ。
夜行電車を降り、乗り換え、さらにバスに乗り、その滝の前に辿り着いたのは夕方だった。 私はバスを降りると、道しるべのまま山道を歩き、その滝口へ立つために、道なりに上へ上へ登った。 虫の音がリーリーと、広葉樹林の中で響いている。平日である所為か人気は全く無かった。脇を流れ落ちていく滝からは猛烈なマイナスイオンが飛んでくる。 紅葉と夕日がその滝の水を茜に染め上げている。滝壺ではごうごうとナニモノかがいそうな深い色の水が渦をまいていた。 滝の高さはン百mだと案内板がしれっと告げていた。 私はその滝を見下ろした。 風が私のコートの背中を振り回す。空を見上げると高くて、雲が山の稜線の向こうへ流れていくのが見えた。 そして、思った。
駄目だ。これは無理。飛べない。超怖い。
私は近所の温泉旅館に一泊して帰ることにした。
紅葉の季節だけあって、温泉旅館はなかなか風情があった。 露天風呂は楓の葉が落ちてくるし、夕食は秋の味覚でいっぱいだった。朝ごはんは出汁巻き卵がおいしかったし、朝風呂では朝もやのかかる山々の雄大な景色を楽しむことが出来た。 要するに満喫したのである。 その旅館の土産屋でもみじの柄の入った饅頭とだるまを購入し、女将に手を振って、私は帰路に着いた。 だるまは『福来』と書いてあるやや大きなもので、目の玉はまだ入っていない。部屋に飾ろうと思った。
お土産を持って私がアパートの階段を登っていると、私の部屋の前で誰かが蹲っているのが見えた。 私は「ハテ」と思いながら、その人影に近づいて行った。 私の立てた足音に気づいて、その人はハッと顔を上げた。 彼女はよれよれのスーツを着ていて、いつもは綺麗に整っている髪も乱れていた。 しかし、そこにいるのは紛うことなき、水野蓉子だった。そして、彼女はどう見ても憔悴しきった様子だった。 彼女は私を見ると、その大きな黒い瞳をさらに大きくした。 私は引きつった笑顔で彼女に、 「ごきげんよう」 とだるまを持っていない方の手で挨拶をした。 途端、蓉子が思い切り抱きついてきた。ひっくり返りそうになったけれど、それは踵でなんとか押しとどめた。 「よかった……本当によかった……」 耳元で蓉子の掠れた声が聞こえて、私はどうにも落ち着かない気分になった。こういうのはどうにも居心地が悪かった。蓉子が微かな嗚咽を漏らしたので、余計に私は焦った。 蓉子は私を離すと、目元の涙を指で弾いた。 そして間髪入れずに飛んできたのは。 目にも止まらないパンチであった。
グーであった。 乙女でありながら、水野蓉子は鉄拳を使用した。 躊躇はゼロであった。 生物を殴るならもう少し躊躇があってもいいものだと思う。 私は蓉子の鉄拳をまともに頬に受け、アパートの廊下に転がった。
その間、すべてがスローモーションに見えた。 手からだるまが零れ落ち、もみじ饅頭が空を舞うのが見えた。 空を飛ぶ鳥が見えた。武蔵野の町が見えた。 コンクリートの床に転がった私を見下ろして女神のように立ち、蓉子は「馬鹿!」と私に罵声を浴びせた。
水野蓉子のことについて。 私は彼女のことについてだけ語り忘れていた。 彼女は佐藤聖の数少ない友人で、読者の皆様もご存知の才女である。現在は某法科学院の二年生で、来年の司法試験に向けて勇猛果敢に勉学に励んでいる。 その傍ら、彼女がしていることがある。 それは哀れヒキコモリとなってしまった、高校時代の友人の家への訪問である。 他の友人親類が匙を投げる中、彼女は全く変わらないお節介で必ず週に一回はその友人の家に訪問していた。 その友人はと言えば、彼女を歓迎することはしなかった。追い返すことはしないにしても、彼女が家の整理や差し入れをしてくれたりしてくれる中、背を向けてパソコンでネットゲームをしていたり、DSでどうぶつの森をしていたり、意味も無くトランプでブリッジを積み上げていたり、とにかく態度が悪かった。 その友人はその態度を糾弾されることに関してやぶさかではないが、理由は呈させていただく。 その友人は彼女に嫌われたかったのである。 しょうもないやつと思われて、さっさと見放されたかったのである。 そして、「私は誰からも必要とされていない人間」であることを完全たる現実のものとしたかったのだ。 しかし、それは今のところ失敗に終わっている。 理由は簡単である。 水野蓉子は佐藤聖のように根性なしではなく、コンニャク意志ではないからだ。とても辛抱強く、その気になればユーラシア大陸を横断するほどの鉄壁の意志の持ち主だからだ。 水野蓉子を考えると、佐藤聖は現在の自分に罪悪感を感じる。マイナスの方へ走ることを、彼女はその存在だけで許さないのである。 だから出来るだけ彼女の存在を、自分の思考の範囲内に入れないように心がけた。視界の範囲内にも入れないように心がけた。 しかし、その目論見は露と消えた。 それどころか粉砕された。 水野蓉子と言う存在に、その鉄拳をもって。
彼女のお説教は延々と続いた。アパートの住人どころか、近隣住民総てに聞こえるようなボリュームだった。彼女には拡声器でも内蔵されているのかもしれない。滑舌も見事である。 私はコンクリートの床に頬をつけながら、ああ、彼女がいる限り、この世界は終わらない、と思った。
赤いだるまが、ころころ、てんてんと、アパートの外へ転がっていくのが見えた。
<あとがきのようなもの>
私の頭の中のお話をします。 何かお話を作ります。 すると頭の中にはいつもその反対要素のような何かが残ります。 それがどんどん溜まっていくのです。 ひとつお話を作ると、何かその影として(或いは影を作るための光として)何かの種が頭の中に残ります。 それはあるときポンと花を咲かせます。 昔書いた無伴奏なんかそれのようです。 これもそのひとつのようです。
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